2018年4月8日日曜日

2018年4月8日 「あなたがたに平和があるように」稲山聖修牧師

2018年4月8日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「あなたがたに平和があるように」
『ローマの信徒への手紙』8章1~3節
『ヨハネによる福音書』20章24節~29節
稲山聖修牧師

弟子のトマスは、復活のキリストとの出会いの場に居合わせなかった。本日の聖書に先立つ箇所で、イエスは二度繰り返して「あなたがたに平和があるように」と語る。ヨハネ福音書では、復活の姿を現したその場で主イエスは派遣の言葉を語る。その場にトマスは居合わせてはいなかった。トマスはキリストとの出会いをめぐって他の弟子たちよりも遅れ、取り残された。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。


「遅れた」トマスの言葉は、現代を生きるわたしたちにも通じるところがある。それはトマスが問答で「わたし」を連発するところだ。「わたし」は、他の弟子たちの「わたしたちは主を見た」の「わたしたち」と対比される。「決して信じない」という言葉は他の弟子たちとは異なる強い響き。断固として否定している「わたし」がそこにいる。つまり、二度目のキリストの復活に出遅れたことによって、トマスの考え方と、現代に生き「わたしの気持ち」「わたしの夢」「わたしの責任」にこだわり続けるわたしたちの物事の捉え方や思い煩いというものが、不思議に接近してくるのだ。現代のわたしと、トマスがこだわる「わたし」とが重なって目の前に浮かびあがるのは、トマスが遅れのお陰かもしれない。

遅れによって、却って気が急くことになってしまったトマスは他の弟子たちとの関わりばかりか、イエス・キリストとの関わりにも目が向かなくなる。急いてばかりいれば自分の都合しか考えなくなるのが人間だ。キリストとの縦糸が危うくなるならば、仲間とも言える他の弟子達との横糸も具合が悪くなる。このようなトマスは八日をかけて復活のイエス・キリストと再会する。八日とは、ユダヤ教の世界では生まれた赤ん坊が、神の愛の中を生きる契約としての割礼を刻むまでの日数にあたる。トマスもまた「わたし」という自意識の牢獄に囚われている間、一人になる時間をトマスは期せずして備えられる。そして三度目に主イエスが現れたとき、「あなたがたに平和があるように」「安かれ」と語りかけ、トマスと実に濃厚な関わりを持つ。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。復活のキリストは、執拗なトマスの「わたし」という問いを否定しないまま、自らの傷跡にトマスの手を触らせる。八日目にトマスはイエス・キリストにこう答える。「わたしの主、わたしの神よ」。トマスの拘り続けた自意識はこのときに砕かれ、トマスの考えの主体は「わたし」から「イエス・キリスト」を通じて「神」へと移行する。復活の物語では、トマスがイエス・キリストを探求したのではなくて、復活したイエス・キリストがトマスに先んじて語りかけるのだ。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる者は幸いである」。今朝の『ローマの信徒への手紙』には「肉の弱さのために律法がなし得なかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」。今朝は、まさにトマスの弱さを取り除くために、またわたしたちの弱さを取り除くために、イエス・キリストが甦られたのだとパウロの言葉を読み取りたい。繁栄を急いだ国は、滅ぶのもまた早い。トマスは時間をかけてキリストの仲立ちのもと、他者へと開かれたあり方へ変貌していった。神の愛を力の源とする教会は、神の定められた時の流れに立つ。多様さと豊かさを尊ぶ、神の公共性という世界がそこには広がるのではないだろうか。