2018年4月15日日曜日

2018年4月15日 「不信仰は信仰の始まり」稲山聖修牧師

2018年4月15日
泉北ニュータウン教会礼拝

説教「不信仰は信仰の始まり」
『ローマの信徒への手紙』8章5~10節
『マルコによる福音書』16章9節~18節

稲山聖修牧師
 

最古の写本にはない『マルコによる福音書』16章9〜11節では、復活したキリストの姿を仰いだマグダラのマリアが、「イエスと一緒にいた人々にいた人々が泣き悲しんでいるところ」へ出かけ、このことを知らせた、とある。けれども人々はその証言を否定する。続く12節には「その後、彼らの内の二人が田舎の方へ歩いていく途中、イエスが別の姿でご自身を現わされた」とある。エルサレム郊外よりもガリラヤへの道は都落ちの弟子の姿があった。主イエスは甦ったご自身を現したが、この二人の証言も「残りの者」によって却下される。そして14節。「その後、11人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」。その後の物語の展開は、『ヨハネによる福音書』でトマスに現れる復活の主イエスの物語と似ているものの、他の福音書の物語にない特徴がある。それは「その不信仰とかたくなな心をおとがめになった」。「おとがめになった」という、かたくなな弟子たちにたまりかねての復活の姿である。

『マルコによる福音書』12章18節以降には「復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の後継ぎを設けねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを遺さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを遺さないで死に、三男も同様でした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」とある。サドカイ派が重んじた文書は創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記に絞り込まれる。この「モーセ五書」では登場人物の葬りは描かれても復活はそれとしては記されない。この点に限ればサドカイ派は近代合理主義的な考えに立つ現代人によく似ているが、果たして人はそれほど強いのだろうか。わたしたちは「死んだらお終いだ」という考えに甘んじられるのだろうか。

死後の世界への幻想や妄想の誘惑は、聖書では「口寄せ」の姿に映される。そのもとに走った人が旧約聖書ではサウル王だった。サウルは口寄せを訪ね、すでに世を去った預言者サムエルの霊を呼び出す。「なぜわたしに尋ねるのか。主があなたを離れ去り、敵となられたのだ。主は、わたしを通して告げられたことを実行される。あなたの手から王国を引き裂き、あなたの隣人、ダビデにお与えになる」とのサムエルの答え。神から託された重大な役目の放棄が描かれる。『マルコによる福音書』では、キリストの復活をこの世の出来事として受け入れられない弟子のかたくなさだけでなく、その態度を戒めるために姿を現したイエス・キリストを描く。その姿は檄を飛ばす鬼コーチのようだ。内面に閉じこもる弟子たちの生き方の、滅びにいたる扉をこじ開けに現れた主イエス・キリストの姿。パウロは「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属してはいません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています」と語る。神の霊がわたしたちに宿っているかどうか、はわたしたちの裁量の及ぶところではない。その高みから定めらているわたしたちとキリストとの関わりこそが、信仰なのだ。この関わりの中で、不信仰の扉をも復活の主イエス・キリストはこじ開ける。不信仰は信仰の始まりである。