2018年4月22日日曜日

2018年4月22日(日) 説教「いのちのガイドライン、それは神の愛」稲山聖修牧師

2018年4月22日
泉北ニュータウン教会礼拝

説教「いのちのガイドライン、それは神の愛」
『ローマの信徒への手紙』8章12~17節
『ヨハネによる福音書』13章31節~35節
稲山聖修牧師

 社会の役に立つか立たないか。これでいのちの価値を値踏みする。聖書はこの残酷な考えの根拠として「貪り」を示す。貪りとは神を見失った者が他者を顧みず、人を道具と見なし、こき使い、その場しのぎの豊かさを求めるありようだ。創世記の失楽園の事件は、知恵の実が「いかにもおいしそう」だったからこそ起きた。兄エサウと弟ヤコブの兄弟間の争いの物語も、エサウが長子の特権を弟の調理したレンズ豆の煮物とパンと交換したのが発端。貪りがエサウから長子の権利を奪った。民数記11章では、エジプト人の奴隷の身から解放されたのにも拘らず、約束の地への旅の途中、その旅そのものを罵り、激しく不満を訴える。「民に加わっていた雑多な他国人は飢えと渇きを訴え、イスラエルの人々も再び泣き言を言った。『誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚や肉をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない』」。神から与えられる食であるマナを授かっていても、イスラエルの民は文句しか言わないのだ。聖書の世界に、夢や理想や型にはまった模範ばかりを求める人がいるならば、きっと挫折するに違いないだろう。余りにも見るに堪えない人間の醜悪な姿をなぜ聖書は、これでもか、これでもかと描くのだろうか。
きっとそれは世の側からは神を見失っているにも拘らず、神が決して人との関わりを絶ちはしないところに、書き手が目を向けているからではないだろうか。律法学者であったパウロに限らず、『ヨハネによる福音書』の書き手も旧約聖書を深く味わったうえで、イエス・キリストの歩みを記す。『ヨハネによる福音書』には、旧約聖書の物語には見られない逆転現象を見る。それは貪りの中で滅びにいたる他ない人の世だからこそ、救い主が訪れた!とのメッセージだ。主イエスは語る。「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることはできない』とユダヤ人たちたちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく」。『ヨハネによる福音書』では主イエスとは決して友好的には描かれないユダヤ人。この人々と主イエスの弟子たちが同列に置かれているのは、旧約聖書の中でイスラエルの民と雑多な他国人とが等しい扱いを受けている点に重なる。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。互いに愛し合いなさいとの言葉には「神自らの愛」を示す「アガペー」が用いられる。互いを大切にし、尊重し合い、泥を被ることも厭わず、痛みをともにするという深い意味がある。貪りの念極まりない限界状況の下でも、神を信頼して食を分かち合い、手を差し伸べるという神の愛と勇気とに満たされた奇跡が起きる。それこそが貪りの構造に根を下ろしているはずの暮らしを根底から変えてしまう、イエス・キリストの出来事である。イエス・キリストの出来事とは、いのちにいたる道、いのちへのガイドラインを鮮やかにわたしたちに示していく。その道をなぞっていくわざこそが「新しい掟」を祈り求めるわざにつながる。
パウロは『ローマの信徒への手紙』の中で、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」。「キリストとともに苦しむならば、共にその栄光をも受けるからです」と記す。律法学者でもあったパウロならではの「新しい掟」をめぐる理解がある。社会に役立つ人になろうとして憔悴するのではなく、他人と較べて要領の悪さや不器用さを呪うのでもなく、「愛する、かけがえのないこの人」を活かす交わりを、イエス・キリストにあって問い尋ね、育んでいきたいと願う。なぜならそのわざには、たった一人のいのちをも軽んじることのない、神の国の姿が隠されているからだ。