2015年12月6日日曜日

2015年12月06日「ベツレヘム、いと小さき者」稲山聖修牧師

聖書箇所:ミカ書5章1~5節

 今月初め、エルサレム旧市街の古代のごみ捨て場を発掘していた調査隊が「ユダの王アハズの子ヒゼキヤ」と記された粘土の印章を見つけたという。列王記やイザヤ書に描かれる紀元前8世紀の人物の実在が証明されたとの知らせ。ヒゼキヤ王の印章があろうことかごみの中から発掘されたのは感慨深い。
 今朝の聖書箇所はヒゼキヤの頃に働いた預言者ミカの言葉として知られる。同時期の書物として有名なのはイザヤ書であるが、この二つの書物の共通点と温度差は歴然としている。共通点は、主なる神の公正な裁きの結果に生じる平和について類似した文言が記される点。他方イザヤ書がエルサレムの平安を語るのに比して、ミカ書は神によるエルサレムの破壊を告げる。イザヤはその時代の宮廷で活躍したとされているのに比して、ミカは辺境の街モレシェト出身であることがその理由としては考えられよう。ミカはアッシリアの侵略に慄くユダ王国の都エルサレムの支配階級にも、やがて併呑されるイスラエル王国の都サマリアと同質の、貧しい人々への傲慢さを見抜いていたのだろうか。
 エルサレムの住民は、街の破壊と二度にわたる捕囚の体験を経てなおも生存の可能性を与えられた。けれどもモレシェトの人々やエフラタのベツレヘムのような辺境の人々は棄民の悲しみを味わう。その悲しみをともにしながら、ミカ書の5章1節には「エフラタのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」とある。
凡そ八百年の時を重ね、ミカ書の言葉はマタイ福音書2章6節で再登場する。その引用には福音書記者による解釈が入り込む。それは「ユダの地ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決して一番小さいものではない」。この変更はミカ書では終末を前にして訪れる救い主がこれから到来するとの見解に立つのに比して、福音書は救い主がすでに訪れたという確信に立っているからだと言える。ベツレヘムは救い主の誕生の地として光を与えられる。周辺に立つところで救い主の誕生が告げ知らされる。人生の周辺に立たなければあり得ない出会い。救い主はどこでお生まれになったか。見つけられたヒゼキヤ王の印章とともに、あらためてその問いを聖書に投げかけていきたいと願う。