2026年1月23日金曜日

2026年 1月25日(日) 説教

    ―降誕節第5主日礼拝―


時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
 
説教=「神の救いの兆し」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』1 章21~28 節
(新約62頁)

讃美=  21-530(316).21-463(494).21-24.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 学生のころ、京都市営地下鉄今出川駅改札にいつも貼ってある一枚のチラシがありました。それは脳性麻痺の方で自立した暮らしを求めている方の支援を内容としていました。よく観ると介護のローテーションが記されており、内容も現在であれば高度なスキルを求められていたように思います。

 東日本大震災や新型コロナ禍の後の慢性的な経済不況の中で高度経済成長期やバブル期を懐かしむ雰囲気が包まれ「あのころは自由だった」「あのころは一億総中流だった」というような雰囲気と対になって「しかし今は経済格差の中で苦しむ人がいる」という主張がなされがちですが、実のところよく考えますと、高度経済成長期もまた今と変わらず、いや今以上に辛酸を舐めた人々がいた事実をわたしたちは忘れそうになります。「森永ヒ素ミルク事件」はその典型で、1955年6月頃、西日本一帯で乳児に発熱や嘔吐、肝臓の腫れなど原因不明の症状が相次ぎました。二ヶ月後に岡山大学医学部での調査の結果、原因がヒ素中毒だと判明、工場で製造された「森永ドライミルク」を使った乳児の被害者は12,131人、実に130人が犠牲になり、今も後遺症に悩まされている方々がいます。冒頭の支援を求めていた方もそうであり、報道番組で被害に遭われた方は「ぼくの68年は何だったのか」と言葉もキレギレに訴えます。必ずしも栄養事情がよくなかった時代せっかく授かったこどもに一流ブランドのミルクをあげたのに、結果として毒を盛ってしまったと自らを責め続ける90代の母親、他方で後遺症と格闘しながら訪問介護員の方と結ばれ子や孫に恵まれた方々もおられます。とくに被害者が高齢化した今では、瀬戸内海を臨む「被害者の家」に集い、同じ仲間と気持ちを分かちあうのが何よりの宝であると仰せでした。
本日の聖書箇所では、安息日に会堂に入って教え始められた人の子イエスの姿が描かれます。しかしこの会堂には不思議なことに「悪霊にとりつかれていた」とされる男性がおり、「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と叫びます。同じ福音書の5章でガリラヤ湖の対岸にある「墓場につながれた悪霊つきの男性」の物語と似てはおりますが、お話の特徴は場所が誰からも疎外された場所であると、はっきり分かる墓場であるのとは異なり、本日の箇所ではその場所が会堂であるというところです。言うまでなく会堂とは古代ユダヤ教の文化圏では暮らしの軸となります。ユダヤ教の世界で礼拝が執り行われるのはエルサレムの神殿ばかりではなく、このような会堂で律法学者が教えを広める以上、その場には地方共同体に属する様々な人々が集うところとなります。そのただなかで、この悪霊にとりつかれた人は「かまわないでくれ」と叫びます。本来はこのような発言をしなければ、ことさら人の子イエスはこの男性に注目はしません。その切なる願いが「かまわないでくれ」。無関心ではなく、目を逸らして欲しいという叫び。ここでイエス・キリストとこの男性との関わりが鮮やかになり、癒しの物語が『マルコによる福音書』で初めて記されます。いわばその共同体で隠そうとしていた弱さを通して、カファルナウムの小さな村に隠されたところの、苦しむだけではなく人々からまともに向きあわれることのなかったその人の尊厳が回復していく様子が描かれてまいります。神の救いの兆しと言わずして何と呼びましょうか。

 わたしたちは常に絶えずその時代の先入観に囚われているのだという事実を絶えず自覚しなくてはなりません。会堂にいるから集う人々はみな笑顔で健やかだ、いわば「健全だ」との思いは、わたしたちの願いに過ぎません。むしろ事実を冷静に見つめれば、様々な痛みをそこかしこに見つけます。ときにはその痛みの由来が自らのあり方に由来する場合もあるかもしれません。右肩上がりの経済成長期の中で公害があり、食品会社が起こした事件があり、その後遺症に苦しむ方々には今なおスポットライトがなかなか当たらないという現実があります。ともすればわたしたちは、どなたかを覚えて祈り、支えるわざには喜んで加わっても、祈られ、支えられるというその逆に立つ立場に感謝しているのかという問いも浮かびます。わたしたちが重んじるべきは、どのような場所にあっても、必ずその心に痛みや悲しみを負っている人がおられ、救いを授かる側に立って物事を想像する態度です。双方向の交わりが要です。

 イエス・キリストは自ら不条理な苦しみを受ける十字架にいたる道を歩まれました。それはイエス・キリストがただ単にわたしたちを一方的に救うという高みに立ってのわざではありません。わたしたちの苦しみをともに担う姿勢を最後まで貫かれたからこそ完成された救い主の癒しでした。イエス・キリストもまた「頭がおかしくなっている」今風にいえば「最強の悪霊を用いて、人々にとりついた悪霊を追い出している」との言いがかりをお受けになります。

 イエス・キリストへの服従を誓ったこの一月。神の言葉に刻まれた道をたどり、祈られる立場を喜びとしましょう。