―降誕節第4主日礼拝―
時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
説教=「湖のほとりで」
稲山聖修牧師
聖書=『マルコによる福音書』1 章14~20節
(新約61頁)
讃美= 21-504(285).21-518(361).21-24.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
各地で相次ぐ地震。南海トラフ地震の兆しを見る人もいれば、大阪市内の上町断層に阪神・淡路の震災の深い傷を重ねる人もいます。自然災害はいのちを一瞬にして奪いますが、それに劣らぬ危機と格闘しながら生きる人々がいました。それは日々湖に網を投げて暮らす漁師。人の子イエス最初の弟子の生業はそこにありました。人の子イエスとの出会いの姿を描く物語として知られるのが『ルカによる福音書』。物語にはさまざまな伏線が張られており、その伏線をたどるとイエス・キリストの受難の折の弟子の態度が分かる仕組みになっています。本日の『聖書』箇所はそのような技巧よりも人の子イエスに従った人々の姿に注目が向けられるよう実にシンプルな筋立てとなっています。
人の子イエスの呼びかけに応じた者、則ち最初期の弟子の名があげられます。「シモンとシモンの兄弟アンデレ」。このシモンは後にペトロとも呼ばれます。そして漁師を生業としておりました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。そして続く道なりで「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ」が招かれます。その四人はそれぞれ二人が兄弟でありかつ同じ湖を暮らしの場としてともにしています。ゼベダイの子ヤコブとヨハネは父を雇い人とともに残して人の子イエスに従っていきます。土地や家族の繋がりを人の子イエスは否定しません。しかし地域では重要であったその繋がりを一度は神に委ねて新たに歩むには人としての大きな決断が要ったことでしょう。
しかしこの最初の弟子はイエスに従う中でまず何を見聞きし何を経験したというのでしょうか。それは自ら決断にいたった様々な思いがことごとく打ち砕かれるという痛みでした。そしてその痛みは湖に漕ぎ出す日常をはるかに凌ぐ痛みであったとともに、自らの浅はかさを突きつけられる日々ではなかったかと推し量ります。
とは申せこの弟子たちはそのような痛みを覚えながら、叩かれながらもイエス・キリストとの関わりを否定できませんでした。ファリサイ派のような『聖書』の知識もなくこの弟子たちは、学者でも教師でもなく、日々の厳しい暮らしを営むほかなかった生活者でした。もし人の子イエスとの出会いがなければ、恐らくは今日まで語り継がれはしなかった人々でしょう。その意味ではもっともわたしたちが自らを重ねやすい人物ではあります。だからこそ、最初の弟子は救い主を前にして実に人間臭い姿を恥も外聞も無くさらけ出してまいります。
その最たる人物がシモン。本日の『聖書』箇所よりもさらに早く文書を記し、しかも弟子と同時期に働いた使徒にパウロがおります。元来パウロは徹底した律法学者であり、その手紙でも教会を迫害していた事実を否定しない一面ももちます。この強烈な個性のぶつかり合いが『ガラテヤの信徒への手紙』に記されます。この手紙は『聖書』に納められる中でも数少なく、パウロ自らが記した文書とほぼ断定されます。この手紙でパウロはシモンを非難します。シモンがパウロとともに歩む教会を訪ね、当初はパウロの教会に集う人々、すなわち古代のユダヤ教徒も諸国の民もともに食卓を囲む集いに加わっていました。しかしエルサレムからその時代のユダヤ教への徹底さを教会に求める人々、すなわち諸国の民とは教会での食事の同席を禁じる人々が調査をしに来るやいなや、シモンは諸国の民との交わりを絶とうと尻込みをした結果、パウロと交わりを深め、ともに働いた使徒もまた巻きこまれてしまいます。その結果、パウロの導く教会は深手を負います。シモンの態度に怒り心頭のパウロは「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦の民のように暮らしているのに、どうしてこの人々にユダヤ人のような暮らしを強いるのか」と衆目を前にして叱りつけます。まことに神の愛の激しい炎とも呼ぶべきパウロの姿勢であり「イエスの焼き印を身に受けた」と語る使徒らしいと申せます。事実パウロの手紙によって目覚めた人々には有名無名を問わずイエス・キリストの福音を徹底させようとした人々の姿が瞼に浮かんでまいります。
