2024年7月18日木曜日

2024年 7月21日(日) 礼拝 説教

       聖霊降臨節 第10主日礼拝― 

時間:10時30分~

 

説教=「イエスの微笑みは変わらず」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』6 章 22~27 節
(新共同訳 新約175頁) 

讃美= 399,21-18(Ⅱ.1),21-29(544).  
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 光明池駅から泉ヶ丘駅周辺、泉北高速鉄道の電車内、近くのスーパーで「おっ久しぶりや」と声をかけられる機会が増えました。誰かと思えば教会員の方やかつての卒園児さんとご家族で、平時の職員の方々のお働きに較べれば現場では申し訳ないとしか言えず、聖書のお話しをする機会にのみ接点はなかったはずなのに「なぜ声をかけられるのだろう」と思いながら驚きます。保育園の外、こども園の外で声をかけられるのはドキッとはいたしますが、考え事を抱えているときにはありがたく思います。
 本日の『聖書』の個所は、前回の礼拝で扱った『マルコによる福音書』とは似ているところはありながらも、大きく異なっている箇所がいくつもあります。『マルコによる福音書』の場合、人の子イエスは弟子を強引に舟に乗り込ませますが、本日の箇所ではそのような描写がなく、自分たちから舟に乗り込み、目指す地に到着するところ、そしてむしろうろたえているのは群衆という無名の人々です。群衆はある者は一人で、ある者は何人かで舟に乗って湖をわたり、人の子イエスを探し求めてきます。物語は五千人の人々を満たした場所の向こう岸にあるカファルナウムという土地までやってきて、とうとう、おそらくは喜びのなかで人の子イエスを見つけて「先生、いつ、ここにおいでになったのですか」と尋ねます。イエスは「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」と答えます。文脈を踏まえますと「いつまでもなくならず、永遠の命に至る食べ物のために働く」ことこそ、五千人を満たした二匹の魚と五つのパンの奇跡よりも大切だと語ります。
 『ヨハネによる福音書』の書き手の集団は、他の福音書のように歴史的な意味での人の子イエスの教えとわざ、そして十字架への苦難と死、そして復活を書き記すだけではなく、福音書の書き手集団がすべて天に召された後を想定しながら「その後の教会」に向けて語りかけているようにも思えます。「いつまでもなくならず、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と説くのです。これはいったいどういうことでしょうか。
 思うにそれは、世の荒波や人の集りとしての教会にはびこる問題に気をとられず、イエス・キリストを見つめつつ、他人と自分を較べずに愛と奉仕のわざに励めというメッセージではないでしょうか。現在、わたしたちが人の集りとしての教会で味わうところの課題は、大方『ヨハネによる福音書』が記されるまでにパウロによる手紙に明らかにされ、どのように向きあうべきかが記されています。さらに『ヨハネによる福音書』の書き手集団は、『新約聖書』の後のほうに置かれている『ヨハネの手紙』も併せて「ヨハネ文書」とも呼ばれる文書集を遺しています。この文書で強調されるのは「神は愛」であり、わたしたちに求められているのは「互いに愛しあう」というわざです。日本語でより分かりやすく申しあげれば「互いを大切にする」という態度ではわたしたち全員が神の前に等しく立っているところで、特別な立場にある者は誰もおりません。『ヨハネの手紙Ⅰ』では次のようにまで書き記します。「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します」。そして「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」とさえ記します。
 イエス・キリストを基としながら、相手を大切にするという態度。たとえ思わず口に出た言葉がはからずも互いを傷つけてしまったとしても、それでも互いを受容し相手を尊敬し続けるというあり方。福音書も含めた「ヨハネ文書」は、それを願望としてではなく、ユダヤ教からの迫害の期間と、ローマ帝国の迫害の期間というまことに緊張した最中にあって、名も無き群衆に向けて「大丈夫だ、それができるのだよ」と語りかけます。抑圧と困難に置かれた多くの群衆、すなわち名も無い人々が、この呼びかけに励まされて教会はあゆんできました。
 コロナ禍以降、希薄になったとされる人間関係。後継者問題で閉店する店舗は街に少なくありません。しかし心象風景が消えゆくなか、主なる神はなおもわたしたちにキリストを通していのちの希望を灯してくださります。勤務中でも、一人きりだと感じる部屋にも、傷つける言葉を心底悔やむときにも主イエスは微笑み傍らにいます。