2024年7月10日水曜日

2024年 7月14日(日) 礼拝 説教

        聖霊降臨節 第9主日礼拝― 

時間:10時30分~

 

説教=「逆風は必ずやむ」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』6 章 45~52 節
(新約聖書  73 頁).

讃美=   492,21-441(268),21-29(544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 見通しの立たない、なおかつ退くことも出来ないような状況に置かれたとするならば、大抵の場合には冷静沈着でいることは難しいかと思われます。自然災害の被災者だけでなく、経営不振を経営者が年中口にして社員を駆り立てる企業に勤務する方々、今まさに乗っている舟から振り落とされそうな人々には、冷静でいるほうが困難です。本日の箇所での人の子イエスのうろたえとは、そのようなわたしたちにも起きて欲しくない場面と寸分違わないところがあります。乗っている舟に、もっともいて欲しい、そしていなくてはならないイエスがいない。教会にとってこれほどの恐怖があるでしょうか。
 ナザレで受け容れられなかった後、人の子イエスは五千人の人々を五つのパンと二匹の魚で満たすという奇跡を行ないます。その後にベトサイダへと向かいますので、経路から申しますとガリラヤ湖を南西から北東に斜め越しに通過するという道筋となります。陽とはとっぷりと傾いており、人の子イエスは群衆を解散させて後、イエスは弟子と分かれて一人、山の中へと姿を消されました。その前に、イエスは途方もない試練の中へと弟子達を向かわせます。それは「強いて弟子たちを舟に乗り込ませた」とある通りです。これは「無理矢理弟子たちを舟に乗り込ませた」とも言い換えられるほど背筋に寒気を覚えさせるほどの恐怖と衝撃を弟子に与えます。漁師の経験もある弟子だから大丈夫だろうとの考えもあるかも知れませんが、湖をよく知る者だからこそ、たった一艘の舟に夜半に乗る危険を知っていたようにも思います。群衆(オクロス)と喚ばれる人々への向き合い方、また救いや癒しを求める人々への向き合い方とは異なり、弟子たちに対する態度には実に厳しい一面を見せるイエス・キリスト。「夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた」。弟子たちは徐々に暗闇につつまれる湖の上で互いになぜこうなったのかとつぶやき、水を被りながら論じあったことでしょう。
 確かに「五つのパンと二匹の魚」の奇跡を侮ったとの誹りは免れません。傲慢な態度を誡めろとのメッセージとしてこの仕打ちを受けとめたのかも知れません。しかし置かれた状況はそのような懲罰的な態度を超えており、弟子たち一人ひとりがいのちの危機を覚えずにはおれないという状況です。なぜなら舟を漕いで思い通りに操れないほどの風が吹いてきたからです。暗闇の中の逆風。この中で一夜を過ごすという恐怖。心神喪失してもおかしくないという状況ですが、誰かがオールを手にしなくてはなりません。誰かが漕がなければなりません。このままにしておこうという気持ちにすらなれないのです。それはあまりにも舟が粗末であったからではないでしょうか。どれほど弟子たちが我を見失っていたか。それは、夜明けのころ、うっすらと陽の光射す湖を、人の子イエスが歩いてこられた折に「幽霊だ」としか叫ぶことができなかった態度に表れています。暗闇の中、神を見失った世界に弟子は置かれていました。イエスを見て喜ぶのではなく、怯える人々が弟子だったのです。
 福音書において「湖」とはしばしば、湖畔に暮らす人々には必要不可欠ながらもいのちを危険にさらす場所として「この世」という意味が込められています。浮き沈みの激しいこの世、神を見失ったこの世。その中に放置されて初めて、弟子たちはイエス・キリストの臨在に気づかされます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。言葉を変えれば「あなたがたに平和があるように。わたしはここにいる。心配することはない」。イエス・キリストがともにおられることで、風は静まり、新たな目的地を目指してオールを漕げるようになりました。
 見通しのつかない時代だということが、マスメディアからは幾度も報道されています。そしてその報道に左右されるのはわたしたちの心だけではなく、実際問題として行政や教育の方針もうろたえます。教会がイエス・キリストを幽霊として見間違う態度こそ、教会にとって最大の危機です。そしてそれは、教会に関連する事業体や学校法人にも言えはしないでしょうか。弟子たちにうろたえと恐怖ももたらした風もまた、『聖書』では「神の愛の力」を示すギリシア語である「プネウマ」として理解されます。うろたえるばかりのわたしたちには、逆風としか捉えられなかった神の愛の力が、キリストとともにあると気づかされることで、穏やかになり、舟を後押しすらする追い風にすらなったと思われるのです。心の鈍いわたしたちです。数字ばかりを求め、また心の不安ばかりに包まれて、この教会にもイエス・キリストが乗り込んでくださっていることに、わたしたちはルーズになってはいないでしょうか。独りよがりな思い込みと、キリストに根ざす交わりを重んじる教会で育まれた信仰とは根本的に異なります。だからこそ安心して、向くべき方向へオールを漕いでまいりましょう。