2024年7月31日水曜日

2024年 8月4日(日) 礼拝 説教

  聖霊降臨節 第12主日礼拝― 

 ―――平和聖日礼拝――― 

時間:10時30分~




説教=「秘めた悲しみに宿る平和への願い」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』7 章 1~9 節
(新共同訳 新約176頁)

讃美=  21-495(310),531,讃美ファイル 3
「主の食卓を囲み」(全節),Ⅱ.171
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
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【説教要旨】
 本日の『聖書』の個所では、ガリラヤを巡る最中、ユダヤ人から危険視された人の子イエスが、無益な衝突を避けて宣教の地より遠ざかるなかで「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしているわざを弟子にも見せてやれ。公に知られようとしながら、人知れず行動するような人はいない。自分を世に示せ」と時を見極めない肉親から求められる一方「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世はあなたがたを憎むことはできないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行なっているわざは悪いと証ししているからだ。あなたがたは仮庵の祭に上って行くがよい。わたしはまだ、わたしの時が来ていないからだ」と答えてガリラヤに留まられたとの物語が記されます。「仮庵祭」とは太陽暦の10月ごろに行なわれる古代ユダヤ教の祭で、収穫を祝うとともに、イスラエルの民が出エジプトの最中にイスラエルの民が荒れ野で天幕を張り暮らした出来事を記念する祭で、毎日シロアムの池の水を黄金の器にくみ神殿に運び、朝夕の供え物とともに祭壇に注ぐ行事が行なわれたと現在では言われています。『ヨハネによる福音書』9章1節には見えない人が人の子イエスの奇跡によって目を開かれた場としても記されますが、今朝の箇所ではむしろイエスが兄弟から心ない言葉を投げかけられる場面が強調されます。「兄弟たちはイエスを信じていなかった」との言葉が強調されます。これは他の福音書にはない人の子イエスと肉親との確執でもあり、おそらくは『ヨハネによる福音書』成立にいたるまでのキリスト者の苦しみの一つではなかったかと思われます。肉親との軋轢を抱えながらイエス・キリストとの関わりを尊んだ人々には、キリストへの服従とは上辺での喜びばかりには留まらなかった証しでもあります。

 本日は平和聖日礼拝です。あの戦争が終ったからといって、当事者の生涯にきれいさっぱり節目が着いたなどとは決して申せません。むしろ殆どの戦争当事者がその悲しみを言葉にしないまま天に召されていくという時代を迎えています。

 従軍経験者がすでに天に召された中で初めて言及される人々の群れが幾つかあります。それは敗戦時にいたるまで心身に障がいをおもちの方々がどのような風に吹かれることとなったのか、また日々の過酷な戦闘経験の中で人の心がどのように荒んでいくのか、さらには戦後そのような仕方で人生を遮られた人々が歩まずにはおれなかった道です。映画やドラマでは決して描かれない世界がそこにはあります。名パイロットとされた人物が、敗戦後には酒浸りに陥り、内臓疾患で亡くなる。大戦中に無謀な作戦を立案し、多くの生き残りの怨嗟の的となりながら虚勢を張り虚しく老後を過ごす。交通インフラの鉄道が艦載機の機銃掃射に遭い家族で自分一人が生き残る。大陸での軍務により精神的外傷によって戦後は教員になるものの、何かあると生徒に懲罰といって教育の名の下に暴力を振るう。反社会勢力の資金源となる薬物は実は戦時下には合法的な疲労回復剤だった。身も心も傷つきながら、無秩序の中を生きようとする中で、とうとう正気を失い座敷牢や離れに閉じ込められたこども。

 このような荒んだ世にあって天から繰り降ろされた神の愛の糸を握りしめて、人としての心を取り戻すべく礼拝に集った人々がいました。生き残った罪責感と相俟って、十字架のイエス・キリストに家族を重ねて、二度と戦乱を起こさないと誓った人々は、静かに時代から声を潜めつつあります。

 現在、数多の神学校で牧会に赴こうとする人々が減少しているとの話を聞きます。学術的な研究は『聖書』と関わる限り、その世界現代に「翻訳」して身近な事柄と関連づける上では大いに助けになります。ただしそれは『聖書』と関わり、イエス・キリストと関わることなしには、恐らく将来にはAIにとって変わるような、無機質なデーター収集と何ら変わりの無い作業になってしまうことでしょう。

 わたしたちに求められるのは、様々な思い悩みに直面しながら、そして平和を憂いながらも『聖書』を開き、その中で「真の平和とはいかにあるべきだったのか」「これからどう生きたらよいのか」と『聖書』の言葉に問い尋ねるわざです。それは時を超えて今こそわたしたちに求められる「真理に根を降ろす」わざです。かつて栄養失調で苦しんだこどもたちは現在ではどこにいるのか。放置されたお年寄りは現在ではどこにいるのか。交わりから排除され道端に項垂れた人々はどこにいるのか。平和の時が訪れるまで、わたしたちは見極める力をイエス・キリストから授かりたいと願います。今こそ祈りつつ真摯にイエス・キリストを尋ね求めましょう。

2024年7月25日木曜日

2024年 7月28日(日) 礼拝 説教

       聖霊降臨節 第11主日礼拝― 

時間:10時30分~


 

説教=「イエスはいのちのパンである」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』6 章 41~52 節
(新共同訳 新約176頁)

讃美= 399,21-18(Ⅱ.1),21-29(544).
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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 人には語れない事柄があるように、教会や日本基督教団にも語りづらい事柄があり、それを言葉にするときに深い痛みを伴わずにはおれない場合があります。日本基督教団の場合は1967年に当時の日本基督教団鈴木正久総会議長の名で「第二次世界大戦下における日本基督教団の責任についての告白」が記されています。その条項をめぐってさまざまな解釈が火花を散らした時代もありましたが、もうひとつの事柄としては1950年代半ばから北海教区で行なわれた「北海道特別開拓伝道(北拓伝)」がありました。それは当時の産業エネルギーであった石炭の採掘場、すなわち北海道の炭鉱街に教会を設立し牧師を派遣し、伝道活動に必要な全経費を当初の一年間は全額日本基督教団が負担、その翌年は半額といった具合で減額していく分、牧師を軸として開拓伝道を行なうというものでした。その結果どうなったかといえば、付帯事業の設立に成功した幾つかの例外を除き、石油への産業エネルギーへの転換に伴い廃坑が相次ぎ、窮乏した牧師一家・教会員も離散、教会が消滅する事態にいたったと言われます。もちろんその困難の中で支えあった牧会者の絆には実に強いものがあり、牧会を退いた仲間とも交わりを維持し続けた者もいたと恩師からは聞きましたが、行方不明者も少なくなかったとも仰せでした。

 ただしかし、人は人生のどこかで切羽詰まった暮らしを経ずには、これは絶対に外してはならないという事柄と、これはこだわらなくても大丈夫だとの見極めの基準が学び得ないとも言えるかもしれません。わたしたちは種々の経験から絶対に外してはならない事柄として「イエス・キリストの使信」との見極めがありますのでありがたいところではありますが、今の世におきましては人としてのいのちの拠り所、善悪の判断の根拠があまりにもぼやけ、生きづらい時代になっているとは言えないでしょうか。テレビの報道が正しいとは誰も言わなくなった反面、情報の洪水の中で事柄の見極めが困難となり、人々の心が気づかないまま病んでいくような時代でもあります。そしてそれは身体の満腹さが常態化するほど深刻になってまいります。

 その意味でも本日の『聖書』の個所で「わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった」と人の子イエスが語るのは、イエスを救い主だとは認めないユダヤ教の人々にも、わたしたちにも深い問いを投げかけます。「あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが死んでしまった」とある引用元は『出エジプト記』や『民数記』です。ユダヤ教の正典のひとつ『律法』における神の審判は滅びる者と救われる者との対照が鮮烈で読むに堪えないときもあり、教会の交わりの要である復活信仰も直接には描かれません。しかし本日の箇所のイエス・キリストの教えについて見方を変えますと、論争上の敵対者であれ、自らを「いのちのパン」として差し出しているようにも思えます。そしてその出典を、その時代のユダヤ教のもうひとつの正典『預言者』に求めているところからも、ただ先祖の行いを踏襲する、繰り返すというのではなく、復活の出来事を通して開かれた未来に足を踏み入れ、「世を生かす」ために働く源となるようにとのメッセージが隠されています。返す刀で『旧約聖書』を否定し、神が創造したこの世界を、身体も含め否定的に理解するその時代のギリシア系の考え方に対する強烈な一撃となります。身体は神の霊の宿る神殿として大切にされるものです。

 時が満ちて身体が世を活かされたしるしばかりになったとしても、その生きざまというものが教会員のみなさまの血肉になっていると考えます。「年齢は決して減るものではない」とのお言葉も交わりの中で賜りました。これはご高齢の方だけでなく誰もが実感するところです。けれどもだからこそ、わたしたちを養ってくださるイエス・キリストにすべてを委ねたいと願うのです。その願いに破れがあり、ひび割れがあったとしても、加齢という現実がその人の未来を拓き、そして究極にはイエス・キリストへの復活へとつながることで、わたしたちが聖礼典以前の問題として「いのちのパン」に養われたかどうかが問われてまいります。『聖書』の言葉さえただのスローガンに留まるならば、他者を排除する方便に容易にすり替わります。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」とはそのすり替えへの歯止めであるにも拘わらず、です。

 イエス・キリストはわたしたちのために自らの身体を献げてくださいました。それはわたしたちが限りある時間の中におかれ、様々な過ちを経ながらも、やがて神自らが創造された人そのものの姿に立つためです。神は自らにかたどってわたしたちを創造されました。そして今も「活きよ」と語り、キリストを通して愛されています。


2024年7月18日木曜日

2024年 7月21日(日) 礼拝 説教

       聖霊降臨節 第10主日礼拝― 

時間:10時30分~

 

説教=「イエスの微笑みは変わらず」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』6 章 22~27 節
(新共同訳 新約175頁) 

讃美= 399,21-18(Ⅱ.1),21-29(544).  
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【説教要旨】
 光明池駅から泉ヶ丘駅周辺、泉北高速鉄道の電車内、近くのスーパーで「おっ久しぶりや」と声をかけられる機会が増えました。誰かと思えば教会員の方やかつての卒園児さんとご家族で、平時の職員の方々のお働きに較べれば現場では申し訳ないとしか言えず、聖書のお話しをする機会にのみ接点はなかったはずなのに「なぜ声をかけられるのだろう」と思いながら驚きます。保育園の外、こども園の外で声をかけられるのはドキッとはいたしますが、考え事を抱えているときにはありがたく思います。
 本日の『聖書』の個所は、前回の礼拝で扱った『マルコによる福音書』とは似ているところはありながらも、大きく異なっている箇所がいくつもあります。『マルコによる福音書』の場合、人の子イエスは弟子を強引に舟に乗り込ませますが、本日の箇所ではそのような描写がなく、自分たちから舟に乗り込み、目指す地に到着するところ、そしてむしろうろたえているのは群衆という無名の人々です。群衆はある者は一人で、ある者は何人かで舟に乗って湖をわたり、人の子イエスを探し求めてきます。物語は五千人の人々を満たした場所の向こう岸にあるカファルナウムという土地までやってきて、とうとう、おそらくは喜びのなかで人の子イエスを見つけて「先生、いつ、ここにおいでになったのですか」と尋ねます。イエスは「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」と答えます。文脈を踏まえますと「いつまでもなくならず、永遠の命に至る食べ物のために働く」ことこそ、五千人を満たした二匹の魚と五つのパンの奇跡よりも大切だと語ります。
 『ヨハネによる福音書』の書き手の集団は、他の福音書のように歴史的な意味での人の子イエスの教えとわざ、そして十字架への苦難と死、そして復活を書き記すだけではなく、福音書の書き手集団がすべて天に召された後を想定しながら「その後の教会」に向けて語りかけているようにも思えます。「いつまでもなくならず、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と説くのです。これはいったいどういうことでしょうか。
 思うにそれは、世の荒波や人の集りとしての教会にはびこる問題に気をとられず、イエス・キリストを見つめつつ、他人と自分を較べずに愛と奉仕のわざに励めというメッセージではないでしょうか。現在、わたしたちが人の集りとしての教会で味わうところの課題は、大方『ヨハネによる福音書』が記されるまでにパウロによる手紙に明らかにされ、どのように向きあうべきかが記されています。さらに『ヨハネによる福音書』の書き手集団は、『新約聖書』の後のほうに置かれている『ヨハネの手紙』も併せて「ヨハネ文書」とも呼ばれる文書集を遺しています。この文書で強調されるのは「神は愛」であり、わたしたちに求められているのは「互いに愛しあう」というわざです。日本語でより分かりやすく申しあげれば「互いを大切にする」という態度ではわたしたち全員が神の前に等しく立っているところで、特別な立場にある者は誰もおりません。『ヨハネの手紙Ⅰ』では次のようにまで書き記します。「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します」。そして「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」とさえ記します。
 イエス・キリストを基としながら、相手を大切にするという態度。たとえ思わず口に出た言葉がはからずも互いを傷つけてしまったとしても、それでも互いを受容し相手を尊敬し続けるというあり方。福音書も含めた「ヨハネ文書」は、それを願望としてではなく、ユダヤ教からの迫害の期間と、ローマ帝国の迫害の期間というまことに緊張した最中にあって、名も無き群衆に向けて「大丈夫だ、それができるのだよ」と語りかけます。抑圧と困難に置かれた多くの群衆、すなわち名も無い人々が、この呼びかけに励まされて教会はあゆんできました。
 コロナ禍以降、希薄になったとされる人間関係。後継者問題で閉店する店舗は街に少なくありません。しかし心象風景が消えゆくなか、主なる神はなおもわたしたちにキリストを通していのちの希望を灯してくださります。勤務中でも、一人きりだと感じる部屋にも、傷つける言葉を心底悔やむときにも主イエスは微笑み傍らにいます。

2024年7月10日水曜日

2024年 7月14日(日) 礼拝 説教

        聖霊降臨節 第9主日礼拝― 

時間:10時30分~

 

説教=「逆風は必ずやむ」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』6 章 45~52 節
(新約聖書  73 頁).

讃美=   492,21-441(268),21-29(544).
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 見通しの立たない、なおかつ退くことも出来ないような状況に置かれたとするならば、大抵の場合には冷静沈着でいることは難しいかと思われます。自然災害の被災者だけでなく、経営不振を経営者が年中口にして社員を駆り立てる企業に勤務する方々、今まさに乗っている舟から振り落とされそうな人々には、冷静でいるほうが困難です。本日の箇所での人の子イエスのうろたえとは、そのようなわたしたちにも起きて欲しくない場面と寸分違わないところがあります。乗っている舟に、もっともいて欲しい、そしていなくてはならないイエスがいない。教会にとってこれほどの恐怖があるでしょうか。
 ナザレで受け容れられなかった後、人の子イエスは五千人の人々を五つのパンと二匹の魚で満たすという奇跡を行ないます。その後にベトサイダへと向かいますので、経路から申しますとガリラヤ湖を南西から北東に斜め越しに通過するという道筋となります。陽とはとっぷりと傾いており、人の子イエスは群衆を解散させて後、イエスは弟子と分かれて一人、山の中へと姿を消されました。その前に、イエスは途方もない試練の中へと弟子達を向かわせます。それは「強いて弟子たちを舟に乗り込ませた」とある通りです。これは「無理矢理弟子たちを舟に乗り込ませた」とも言い換えられるほど背筋に寒気を覚えさせるほどの恐怖と衝撃を弟子に与えます。漁師の経験もある弟子だから大丈夫だろうとの考えもあるかも知れませんが、湖をよく知る者だからこそ、たった一艘の舟に夜半に乗る危険を知っていたようにも思います。群衆(オクロス)と喚ばれる人々への向き合い方、また救いや癒しを求める人々への向き合い方とは異なり、弟子たちに対する態度には実に厳しい一面を見せるイエス・キリスト。「夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた」。弟子たちは徐々に暗闇につつまれる湖の上で互いになぜこうなったのかとつぶやき、水を被りながら論じあったことでしょう。
 確かに「五つのパンと二匹の魚」の奇跡を侮ったとの誹りは免れません。傲慢な態度を誡めろとのメッセージとしてこの仕打ちを受けとめたのかも知れません。しかし置かれた状況はそのような懲罰的な態度を超えており、弟子たち一人ひとりがいのちの危機を覚えずにはおれないという状況です。なぜなら舟を漕いで思い通りに操れないほどの風が吹いてきたからです。暗闇の中の逆風。この中で一夜を過ごすという恐怖。心神喪失してもおかしくないという状況ですが、誰かがオールを手にしなくてはなりません。誰かが漕がなければなりません。このままにしておこうという気持ちにすらなれないのです。それはあまりにも舟が粗末であったからではないでしょうか。どれほど弟子たちが我を見失っていたか。それは、夜明けのころ、うっすらと陽の光射す湖を、人の子イエスが歩いてこられた折に「幽霊だ」としか叫ぶことができなかった態度に表れています。暗闇の中、神を見失った世界に弟子は置かれていました。イエスを見て喜ぶのではなく、怯える人々が弟子だったのです。
 福音書において「湖」とはしばしば、湖畔に暮らす人々には必要不可欠ながらもいのちを危険にさらす場所として「この世」という意味が込められています。浮き沈みの激しいこの世、神を見失ったこの世。その中に放置されて初めて、弟子たちはイエス・キリストの臨在に気づかされます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。言葉を変えれば「あなたがたに平和があるように。わたしはここにいる。心配することはない」。イエス・キリストがともにおられることで、風は静まり、新たな目的地を目指してオールを漕げるようになりました。
 見通しのつかない時代だということが、マスメディアからは幾度も報道されています。そしてその報道に左右されるのはわたしたちの心だけではなく、実際問題として行政や教育の方針もうろたえます。教会がイエス・キリストを幽霊として見間違う態度こそ、教会にとって最大の危機です。そしてそれは、教会に関連する事業体や学校法人にも言えはしないでしょうか。弟子たちにうろたえと恐怖ももたらした風もまた、『聖書』では「神の愛の力」を示すギリシア語である「プネウマ」として理解されます。うろたえるばかりのわたしたちには、逆風としか捉えられなかった神の愛の力が、キリストとともにあると気づかされることで、穏やかになり、舟を後押しすらする追い風にすらなったと思われるのです。心の鈍いわたしたちです。数字ばかりを求め、また心の不安ばかりに包まれて、この教会にもイエス・キリストが乗り込んでくださっていることに、わたしたちはルーズになってはいないでしょうか。独りよがりな思い込みと、キリストに根ざす交わりを重んじる教会で育まれた信仰とは根本的に異なります。だからこそ安心して、向くべき方向へオールを漕いでまいりましょう。


2024年7月4日木曜日

2024年 7月7日(日) 礼拝 説教

      聖霊降臨節第8主日礼拝― 

時間:10時30分~

 

説教=「いのちはゆきめぐり、時は満ちていく」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』5 章 19~25 節
(新約聖書  172頁).

讃美=519, 21-289(122), 21-29(544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 蛍が小川の川辺を舞う季節、暑さもつのってまいりました。蒸し暑さのなか、草むらにはさまざまないのちが動いています。弱肉強食という人間が勝手にこしらえた理解とは別に、トカゲの餌となっていたカマキリの幼虫は、成虫になればトカゲそのものを食べもするようになります。いのちのネットワークとはそれほどまでにきめ細かく編まれています。

 福音書の時代におきましては、どのように小さないのちでさえ、神の力によっていのちを与えられていると理解されていました。これは日本語にも同じような理解があります。こどもたちの遊び友だちになってくれるバッタの仲間にショウリョウバッタがいます。その名の由来は、八月の旧盆、精霊流しの際に川に流す笹舟をその身に重ねているとの説があります。ただ異なるのは、日本の場合は召された方々の霊魂が盆に戻ってくるとの説に較べ、『聖書』では鮮やかに復活という仕方で身体を伴って甦るという理解があるところです。身体を伴っている以上、そこには歴史があり、召された人とともにあゆんだ人々はその問いかけへの向き合い方が問われます。誰かに責められるというのではなくて、どのような関わり方をし続けたのかと主なる神は問うのです。

 その問いかけとしての「裁き」は果たしてわたしたちにどのように響くのでしょうか。それはその人の生涯を全否定するのではなく、完成に導く力があります。魂だけでなく心身ともに甦らせる力があります。そしてわたしたたちの五感や医療でいう生死を超えた交わりを、イエス・キリストを通して新たにする力があります。どのような過酷な環境で生涯を全うしたとしても、誰もが神の似姿として新たにされるのです。

 わたしたちが今朝味わっているところの『ヨハネによる福音書』は、他の福音書が担う「イエス・キリストが歴史的にどのようにあゆんだか」を物語として再編し記録するだけに留まらず、復活したイエス・キリストがわたしたちとどのようにあゆんでくださるのかというさらに立入った物語としての特性も含んでいます。それはその時代に、キリスト教よりもはるかに力を振るっていたところの、古代ギリシアの影響を受けた考えへの答えです。神の愛の中をあゆんだいのちは、ただその足跡だけを世に残していくのでもなく、霊魂だけが肉体と切り離されてこの世とは無関係のあの世にいってしまうわけでもありません。どこかへと消えていってしまう無常の中にもありません。召された方々はイエス・キリストを通してこれまで以上にわたしたちと濃厚に関わり続けます。だからこそ『聖書』の世界では死は終わりではなく、新しいいのちへと接続されることにより死そのものの中にもいのちへの希望が授けられます。だから被災地で亡くなったはずの方の姿を見たとの話を聞いたとしても、その話を軽蔑するのではなく、天に召された方が遺されたその人への存在と問いかけとして受けとめ尊ぶのです。さらに『聖書』は、その人の生涯の終え方をしてその人の死後を意味づけることもいたしません。問われるのは「生き方」が主の祝福のもと懸命であったかどうかであり、その態度は余人の理解できる範囲を超えています。「父は子を愛して、御自分のなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きなわざを子にお示しになって、あなたたちが驚くこととなる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」。すべての裁量は、イエス・キリストに委ねられています。それでは、イエス・キリストはどのような人々と語り合い、交わりを深め、祝福されたというのでしょうか。イエス・キリストは超然と特定の場所に留まっておられたのはありません。むしろその時代には数の内にも入らぬとされた人々の間に分け入って神の愛を証しされ、教えを伝えられました。その話を聞いた読み書きの出来る人々も、ローマの兵士たちも、女性もこども、豊かに祝福されました。イエス・キリストはそのような姿を通してわたしたちに問いを発しています。

 それは「あなたがたは、わたしの示した道を狭めてはいないだろうか」との問いかけです。パウロが心から憂いた課題は『コリントの信徒への手紙Ⅰ』1章にある通りです。すなわち「あなたがたはめいめい『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』と言い合っているとのことです」と記されているとおりです。人の姿だけが目に入るときにわたしたちはこのような躓きを犯しがちです。主なる神の大いなる救いのわざを信頼してあゆんでまいりましょう。