2023年11月23日木曜日

2023年 11月26日(日) 礼拝 説教

  ー降誕前第5主日礼拝ー

――収穫感謝日礼拝――

時間:10時30分~



説教=「ことばにできない出来事、ことばにならない実り」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』18章33~40節
(新約聖書  205頁).

讃美=503,495,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 学生のころ、Tくんというクラスメートがいました。静岡から京都で神学を学ぼうとした彼は聖歌隊のメンバーで、実に物静かな佇まいであり、わたしたちの教会よりもよく言えば実に礼拝だけでなく日々の暮らしに厳格な態度で臨むキリスト者でした。そんな彼をわたしは尊敬していたのですが、ある日鴨川の岸辺に一緒に佇んでいると次のような相談を受けました。「教会の宣教師の先生が酒を呑むなと言うのだ」。そうだろうと思い頷いていましたら「それだけじゃない、親に仕事を辞めさせろとまで言う。きついよな」。彼の実家は酒の小売店を営んでいました。その仕送りで彼は神学を学んでいるのはおかしいとさえ言われたというのです。長く悩んだ果てにTくんはローマ・カトリック教会の教会員になりました。

 宣教師の先生には決して悪気はなかったでしょう。むしろアルコール依存症に苛まれる人々を見て、どうすることもできなかった悔しさを抱えていたかもしれません。けれども家族の生業をただ否定するだけであれば、それは生活基盤の否定でしかなく、とても宣教とは呼べないように思います。Tくんの消息は未だに確認できません。

 「総督」と呼ばれる立場にも同じ事が言えるかもしれません。ローマ帝国の支配はイタリアに始まり、スペイン、イギリス、北アフリカ、エジプト、パレスチナ、東西ヨーロッパ、トルコにまで及びました。地中海を内海とする国家は史上今日まで現れません。この実に広大で多様性に富む地域を支配するため、ローマ皇帝は領土を細分化し総督を置きました。その役目はローマ帝国の皇帝の代官として、支配地域に紛争や争いが起こらないように統治し、支配された人々のローマ帝国への帰属意識を強めて、税収をあげるところにもありました。もしこの総督が善政を行なうならば人々はこぞってローマ帝国の支配を歓迎したことでしょう。しかし他方で力による支配には限りがあると支配者自らが認め、絶えざる自己点検もまた求められた筈です。その中で言えば、ピラトという人物は凡庸な総督でした。領地でもめ事や争い事が起こるのを避けるために、人の子イエスの裁判の行く末を、支配しているはずの大祭司から丸投げにされても何も言えません。その問答の中で「お前はユダヤ人の王なのか」と問えば「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と逆に問い詰められて「真理とは何か」としか問わずにはおれません。そしてその問いには答えはありません。つまりピラトは人の子イエスの裁判の結びの箇所でさえ何も答えられず、総督としての役目を放棄してしまい、その後の判決を「過越の祭」にかこつけた恩赦の問題へとすり替えてしまうのです。ピラトは総督という職務を全うするのではなく責任を放棄することで、自らの身の上の虚しさをあからさまにしてしまいます。だからこそ『使徒信条』では「ローマ総督のもとで苦しみを受け」ではなく「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」と記され、凡庸な彼は歴史に名を残すことになってしまったのでしょう。事の行く末を知っている人には呆れて「話にならない」と言われても致し方ありません。しかしこの全く希望の見えない道筋から「ことばにならない実り」をわたしたちは授かることとなります。

 それはイエス・キリストがいっさいの事柄を身に引き受けることにより、その裁判の経緯が闇の中で行なわれ、その不条理が誰の目にも明らかにされたという点です。ピラトの凡庸な悪がもたらす「たいしたことのない闇」が折り重なることによって救い主が十字架に釘づけにされるだけでなく、十字架の上でも「神に見捨てられた」と思い悩む人々を決して一人にはしなかったその態度、そして葬られて三日目に復活されたという出来事を通して、わたしたちの世につきものの保身に基づく偽りや不条理や悲しみがすべて暴露され、ついには滅びにいたる道までが籾殻のように吹き飛ばされるにいたります。ピラトの行く道と人の子イエスのあゆみとは正反対であるばかりでなく、根本から異なっています。その土からして異なるのであります。

  『ヨハネによる福音書』12章24節には、有名な言葉があります。それは「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠のいのちに至る」という言葉です。この言葉に人の子イエスのあゆみと、凡庸な悪を表わすピラトの振る舞いの差が鮮やかに描かれ、凝縮されています。わたしたちも教会のあゆみも、歳月を重ねる事に臆病になってしまうところがあります。しかしイエス・キリストはそのようなわたしたちのそばに立って「大丈夫だから、もう一歩踏み出してごらんなさい」と肩をぽんと叩き語りかけてくださいます。イエス・キリストがその生涯を通して蒔いた種は今なおあなたがたの心に、わたしたちの心に根を張り続けています。自らを顧みるのではなく、陽の光をめざし、この木枯らしの中で豊かな実を結びます。ことばにならない実りがそこで実っています。それに気づいたときにこそ、わたしたちは互いに頭を垂れ感謝しつつ道を拓き進むことができると確信しています。