2023年11月9日木曜日

2023年 11月12日(日) 礼拝 説教

ー降誕前第7主日礼拝ー
―幼児祝福式礼拝―

時間:10時30分~



説教=「神のこどもたちとともに重ねる年輪」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』9章1~7節
(新約聖書  184頁).

讃美=467,461,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 街を歩いておりますと、様々なお国柄と思われる人が道を行き交っているのに気づかされます。親御さんはイスラーム圏ならそれらしい服装でバギーカーを押しています。お母さんについて歩くお子さんはほぼ日本語で母親に代わって公共交通機関の係員と話をし、親御さんの道中を手伝っています。もはやそれが当たり前の時代のはずですが、今なお強い同調圧力の中に、大人の想定する「こども」とは異なる特性をもつお子さんたちが置かれて、いじめの対象になっているケースもあります。本来ならば加害者に問題があり、被害者が泣き寝入りするのは異常なはずなのに、なぜか加害者である多数側の振る舞いがやむなしとされ、被害者側に問題がある、とされる。これが日本社会の多様性の拡大を阻む典型的な壁です。被害者の申し立てがどれほど正しくても政治力を伴った壁は押し問答だけではなかなか破れません。粘り強く「頑張らなくてはならない」からこその運動が求められたのが20世紀でした。生まれながらにして肌の色が違うという若者に、当たり前のように「虐められましたか」と聴かねばなりません。

 そのような同調圧力の影響から決して自由ではなかったろう、と思われるのが本日の福音書に描かれる人の子イエスの弟子でした。「生まれつき目が見えない」のは、古代のユダヤ社会でその人が社会で抱える生きづらさを示しているのは確かですが、周囲の人々の支援があれば生活上の不便さだけではなく、愛情深い関わりの中であゆむこともできるでしょう。しかし弟子は人の子イエスに次のように語ります。「ラビ(ヘブライ語で先生の意味)、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。本当のところ『旧約聖書』『レビ記』には「耳の聞えない者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いたりしてはならない。わたしは主である」とあるにも拘わらず、要は煎じ詰めれば生まれながら目が見えないだけの人に、その人には他の人とは異なる罪があると『律法の書』を充分に読み取らないところで生まれる圧力を示しています。

 人の子イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでも無い。神のわざがこの人に現れるためである」と答え、癒しのわざを行なった結果、その人の目は開かれて見えるようになりました。おそらく他の福音書の場合では物語はこれで完結するのが典型的ですが、『ヨハネによる福音書』ではこのイエスの癒しのわざは、この目の見えない人物の属する社会の病や壁、圧力までも見えるようにしてしまいます。癒しの出来事の後、近所の人、知り合いに始まり、ファリサイ派の律法学者、癒された人の家族にまで圧力が及ぶのです。物語の上では、すでに会堂でイエスをメシアであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決定されていました。ただ病を癒されただけなのに、目を開かれた人は人の子イエスを敵視するファリサイ派の人々から尋問されています。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことをお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行なう人の言うことはお聞きになります。生まれつき目の見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」。この答弁に対してファリサイ派の人々は「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようとするのか」と言い返し、彼を外に追い出してしまいます。しかし、この物語で明らかになったのは、癒された目の見えない人は罪のない人であり、むしろ罪深かったのは、目の見えない人を取り囲む極狭い世界からの圧力でした。それでは追い出された人はどうなったというのでしょうか。この一連の出来事をイエス・キリストはお聞きになり、当事者たる癒された人物と出会います。そしてついにイエスは主であると宣言するのです。レッテル張りの中で身動きがとれなくなる狭苦しい場所とは異なる全く新しい世界が、この癒された人の前には広がっています。

 それだけではありません。この一連の出来事は多くの人々の目の前で起きていたと考えられます。隣近所だけの話だけではなく、礼拝堂や村全体を巻き込んでいました。その中にこどもたちの眼差しがなかったと誰がいえるでしょうか。神のこどもたちとともに重ねる年輪があります。雨に降られても、風に吹かれてもその年輪は重ねられます。どのようにおとなが隠そうとしても、いや、隠そうとするほどにこどもたちの眼差しはおとな社会に向けられています。影響もうける反面、そこには反発も生まれます。たった一人の目の見えない人が、ただ生きづらさをイエス・キリストに癒されただけで、村中をたらい回しに去れ、そして最後には家族からも「知らない」と言われながらも、ただイエス・キリストだけがその居場所となっていった様子を、曇りのないその瞳で見つめています。本日は幼児祝福式を執り行います。イエス・キリストを見つめるその瞳がいつまでも曇らないように、いや、年齢を積み重ねることによって、多くの困難を経る中でキリストの備え給う道へと導かれますように、ご高齢の方も、壮年の方も、若者も、齢を問わずに神にこどもたちへの祝福の祈りを献げましょう。こどもたちの眼差しは今もわたしたちに向けられています。