2023年8月25日金曜日

2023年 8月27日(日) 礼拝 説教

  ー聖霊降臨節第14主日礼拝 ー

時間:10時30分~



説教=「愛は憎しみに勝つ」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』14 章 1~6 節
(新約聖書  136 頁).

讃美=66, 461,Ⅱ 171.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 ひと口にファリサイ派、または律法学者と申しましても福音書では決して十把一絡げに扱えるわけではありません。人の子イエスの教えに敵愾心を剥き出しにして、その抹殺を企てる者もいれば、イエスの『聖書』の解き明かしに賛意を表明する者もおりました。またその教えが分からないからといって端から否定するのではなく、夜半に訪ねて「新しく生まれる」との教えの真意を問いかけるニコデモのような者もおり、十字架刑に処せられた後の人の子イエスの亡骸を、社会的地位を顧みずにひきとり埋葬したアリマタヤのヨセフもまたファリサイ派であったと申します。『使徒言行録』で当初はキリスト教徒の弾圧に熱心であったサウロは「なぜわたしを迫害するのか」とのキリストの言葉と出会い使徒として伝道活動に励むこととなります。そのように一人ひとりの顔を思い浮かべたときに、各々の『聖書』の理解も様々であったことが分かろうというものです。少なくとも人の子イエスとファリサイ派とは、その時代のユダヤ教の教えである『律法の書』と『預言者の書』をともにしていたと言われます。ですからファリサイ派の人々と人の子イエスは「復活」という出来事をともに正面から受け容れておりました。

 ただし問題はファリサイ派一人ひとりの『聖書』理解と人の子イエスの教えを重ねたとき、そこにボタンの掛け違いが起きてはいなかったかというところにあります。ちなみにイスラームの場合、ラマダーンという断食の教えにあたる期間があります。この期間には陽が昇ってから沈むまでは自らの唾さえ飲み込んではならないという考えもあり、その点では徹底しているのですが、本日のファリサイ派はどうも様子がおかしいのです。と申しますのも、本日描かれるファリサイ派の議員は、保守的に考えれば何もしてはならないはずの安息日にイエスの訪問を受け容れているからです。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを作り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別したのである」と『出エジプト記』の十戒にはあります。ですから、人の子イエスを食事のために受け容れたからには、議員でもあるこのファリサイ派の人物は僕(しもべ)に命じ、食卓の準備を命じていたはずです。その意味では本日登場するファリサイ派もまた、一定の解き明かしに則してイエスを迎え入れていたはずです。そこで問われるのは、その解き明かしは「何のために」という素朴な問いかけを鍵としています。

 「何のために?」。人々はイエスの様子をうかがっていた、とあります。なぜならその時、水腫を患っている病人がその中にいたからです。水腫を含めて、重い皮膚病に罹患している人は、人々の交わりからは退けられなくてはならないと『レビ記』一三章にはあります。ですから当時の常識ではこの水腫に罹患した患者はこの場にはいるはずがないのです。それにも拘わらず、「律法の専門家たちやファリサイ派の人々」と複数の専門家に囲まれるようにして、この水腫が発症している患者はその場に棒立ちとなっています。実に残念ながら、この水腫の罹患者は、人の子イエスを試みるために引き出されてきた可能性が高いのです。何と酷い仕打ちでしょうか。イエス・キリストを陥れるために、人格を否定され、わざわざ安息日に見世物のように引き出されてきたこの病人。人の子イエスを陥れるための憎しみによってこの場に連れてこられたとも言えます。

 イエス・キリストはこのような傲慢な人々に「安息日に病気を治すことは律法で赦されているか、いないか」と問いかけます。イエス・キリストへの憎しみに凝り固まった人々は、その憎しみのゆえに安息日の規定を歪めましたが、イエス・キリストは「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者もいるだろうか」と語りかけます。人を辱めるかどうかという問題以前に、家族や暮しに欠かせない家畜が生きるか死ぬかの瀬戸際に置かれたら、譬え安息日といえどもあなたがたは助けるだろうというメッセージを語ります。そもそも『律法の書』が記されたのも、『聖書』の物語に則するならば、奴隷であった人々が神に解放された後、行くべき道を違わぬよう備えた教えであり、神の愛なしには解き明かしは大きな混乱を招きます。実は律法は福音の養育係なのです。イエス・キリストは病人の手を取り、病気を癒してお返しになった、とあります。この場に登場するファリサイ派の人々は、この病人の手をとることすらできませんでした。イエス・キリストが行なったわざとは、その態度とは正反対でした。貶めや蔑みに基づいた謀は、結局は恐怖という名の壁を越えることはありません。しかし手を取って癒しに専念したイエス・キリストのわざには今なお深く心を打たれます。神の愛がそこには溢れているからです。

 何かの誤解がわたしたちの交わりに生じたとき、わたしたちはあらためて相手の手をとりながら「真意はどこにあるのか」と勇気とともに問い尋ねましょう。主なる神に背を押されて育まれる交わりには、憎しみや誤解に打ち勝つ神の愛が備えられています。