2023年3月24日金曜日

2023年 3月26日(日) 礼拝 説教

      ―受難節第5主日礼拝―

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「世も人も新たにされるには」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』20 章 9~19 節
(新約聖書 149 頁).

讃美= 262,191,544. 
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

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方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 「わたしは天地の造り主、全能の父である神を信じます」と、古代の教会の時代から今にいたるまで教会の事実上の背骨の役目を担ってきた使徒信条告白があります。文語訳の「われは天地の造り主 全能の父なる神を信ず」と母教会では洗礼や堅信礼前には必ず暗唱するようにと指導されたものでした。しかしながら神は自らとしては『旧約聖書』にあっても宇宙や地球、いのちを始めとした万物に対して単に鎮座まします姿としては描かれません。『旧約聖書』とりわけ『創世記』で注目される神がわたしたちの世に向けてとる態度とは「くだる」という態度です。よく知られた「バベルの街の物語」でも「降っていく」とあり「ソドムの街の滅亡」物語でも、神はまず降っていって都市に暮す人々の様子を詳らかに調べます。全能の神の立場にただ留まるのであればわざわざそのような所作に及ぶ必要もないのですが、おごり高ぶる上昇志向の人間とは対照的に、自ら謙るだけでなく、人間に悔い改めと気づきの暇を授ける慈しみというものを感じる神の姿勢です。

 その姿勢はイスラエルの民、そしてわたしたちにも信仰の父と呼ばれるアブラハムが豊かさを快楽の源と取り違える乱れた都市ソドムを執り成す場面で一層徹底されます。アブラハムがこの都市国家が滅ばないように擁護するのは一重にそこに甥のロトが住まいを構えていたからで、もし神がソドムを滅ぼすのであればそれは甥も巻き添えを喰らってしまうに違いないとの思いもあったことでしょう。族長としては到底許容できない事態です。そのアブラハムに応えるべく、主なる神は御使いを通して「もしソドムに義しい人がいるならば」とのテーマで語らい、当初の条件の50人を10人に譲歩させてまで救いを授かろうといたします。

 もちろんこの物語は『新約聖書』の舞台ではすでに「伝承・伝説の物語」になっていたかもしれません。しかし人の子イエスはさらに身近な題材と内容としてはサスペンスやホラーに近い物語を語ります。ぶどう園の主人が農園を農夫に貸して長旅に出かけ、収穫の時を迎えたので僕を送ったところ、袋だたきにされ追い返されます。さらに他の僕を送ったものの、今度は袋だたきに加え侮辱まで受けて何も渡さず追い返されます。そして三人目は傷を負わされて追い返されます。あろうことか主人は「どうしようか、わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」と息子を遣わします。もはや素朴なぶどう園の労働者の姿はそこにはなく、相続財産を奪う、ならず者集団と化した群れがあります。息子は殺害され放り出されてしまいます。今日で言えば誘拐殺人と死体遺棄の現行犯と見なされて当然の狼藉に及びます。しかしなぜこのような物語が記されたのでしょうか。

 わたしたちがぶどう園の主人であれば最初の僕が暴行を受けた時点で事実確認をし、何らかの対策を協議し結論を出すことでしょう。事実『旧約聖書』の族長物語や『士師記』、『サムエル記』、『列王記』などでは狼藉者に制裁を与えたところで指導者が神から責めを受ける場面はありません。他方でこのぶどう園の主人は、次から次へと僕を送っては重傷を負わされしまい、遂には愛息まで遣わし殺害の憂き目に遭います。神は犯罪の被害者遺族となってしまうのです。そういたしますと別の角度からこの箇所を味わう必要もまた生じます。つまり次々に派遣された僕は預言者であり、最後に遣わされた息子は救い主イエス・キリスト、これら神の役目を委託された者の殺害に及ぶのは欲に眩んだイスラエルの民を始めとしたわたしたち人間となります。しかしそれでも謎めくのは、なぜ神は自らのメッセージを託した重要な人物を人海戦術のような仕方でならず者の中に送り込むのかという点です。

 本日はこの箇所で『創世記』2章以下で「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と人に語りかけた主なる神の愚かさを重ねてみましょう。この箇所での神の振る舞いは人の目からは愚かにしか見えません。しかしそこには深いメッセージが隠されています。本日の福音書の箇所でもそれは言えます。それは相手がどれほど残忍な、ならず者であろうと僕を遣わし、息子を派遣することを止めないぶどう園の主人の姿です。これもまた主なる神の愚かさを語るに充分な内容で、人の子イエスの「さて、ぶどう園の主人はどうするであろうか」との言葉は、譬え話の本筋とは直接の繋がりはなく、対話を目的とした問いかけになっています。ならず者集団の巣窟となっているぶどう園はおそらくわたしたち人の世の問題を深く掘り下げた世界として描かれています。そこでは神の役目を授かった者が辛酸を舐める不条理に満ちています。そして僕に始まって自らの息子もまた徹底的に排除されるという酷たらしい現実と重ねられます。しかしイエス・キリストは次のような結論を導きます。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」。「隅の親石」とは木造建築でいう大黒柱にあたります。人々の群れに捨てられた木材が、是非とも必要な背骨の役目を果たすという物語です。排除される人々とともにあゆむイエス・キリストは、確かに福音書の舞台で十字架へと追いやられていきます。しかしイエス・キリストに根ざす交わりは、様々な生き辛さを抱えながら世に神の平和と希望をもたらします。世も人もそのように新たにされてまいります。