2023年3月10日金曜日

2023年 3月12日(日) 礼拝 説教

    ―受難節第3主日礼拝―

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 
説教=「一人ひとりのはかり知れない尊さ」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』9 章 21~27 節
(新約聖書 122 頁).

讃美= 301,452,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
  堅いつぼみが少しずつ膨らむように、コロナ禍で規模縮小を余儀なくされていた公立学校に始まる地域の公共の諸行事も新型コロナ感染症流行以前の状態に戻そうとしています。用心深くではありますが、少しずつ肩の荷が軽くなるようでもあります。
けれどもこの新型コロナウイルス感染症でメディアから放置されているのが2011年の東日本大震災の被災地。津波によって壊滅的な打撃を受けた上に、東京に電力を供給する福島第一原子力発電所の1~3機の炉心溶融が起き、少なくとも名古屋市と同程度の広さの土地から人々の住まいが奪われました。機会ある毎に地元の人々は懸命にその後の自然災害を克服しながら自宅の農地を回復するべく里に戻っての作業に懸命。しかし廃炉の作業には少なくとも2051年まで必要だとの声もあります。発電所の免震重要棟と東京の電力会社での会議では「炉心の腐食はもったいないから淡水で冷却できないか」「どの道ふっとぶ」といった地域を無視した無責任な声がはっきり聞き取れます。卒業式を終えて震災に襲われ、住まいや生きる手立てまで奪われた人々の痛みが、たった12年で癒されるとは誰も考えてはいないでしょう。「補償金が出たのだからよいではないか」との心ない言葉が被災者には今も向けられます。けれども無気力に見える人々の姿は、これまで生き甲斐だった仕事を放棄するほかなかった絶望を物語っています。「最後は金目」との実に心ない言葉。一人ひとりの尊さを支える安全性を補償額に置き換える組織の体質は今も変わりません。  
確かに人を数字に変えて浸る悦楽は麻薬のようなもので、それは教会にも及んできます。数字の変化に示される課題は確かに重要です。しかし数値は氷山の一角で、その数値にいたった文脈を読み解かないと伝道どころか数値そのものの改善にすら及びません。『花は咲く』という歌が歌われましたが、こぶしの花咲く故郷に帰ったところで暮らす術がないという人は絶えないのです。
  
  ところで『旧約聖書』『新約聖書』で描かれる神はご自身のわざとしては人を数で勘定されません。その時代にはわたしたちが用いるアラビア数字が存在しなかったというだけでなく、一人ひとりが神の似姿として創造されているとの理解に立つからです。「神はご自分にかたどって人を創造された」という『創世記』の短い言葉は、神にかたどって創造されたのは人間すべてを指すのであり、それは特定の民や身体的に優れた特性を備えた人々、経済界層や身分に囚われていないという意味でまことに画期的な着想です。しかし他方で人間が作り出した社会なる組織は、神のお造りになった世界とは大幅にずれ、その歪みの中でわたしたちは苦しむのです。「神からのメシアです」と答えた使徒ペトロのメシア理解でさえ、それは独善的であり破れに満ちていました。その後に主イエスが語るのはイエス自らに襲いかかる苦しみと排斥と十字架による殺害です。そのような社会のありようを人の子イエスはその身に映した上で語ります。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」。そして最後には「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまで決して死なない者がいる」。

  「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては何になろうか」。何かを自分のものにしようと振る舞うわざを、かつて悪魔は荒れ野でイエスに唆しましたが、そのような事柄よりも肝腎なことがあると語ります。それはキリストに従うことだというのです。それは決して格好のよい体裁ではありません。心ない言葉を浴びて傷ついたとき、日を置かねば涙さえ流せないような別れを味わったとき。もうやめたいと思ったとき。そのようなときのなかで、キリストに従う道が拓かれます。前進するのもよいし、後退するのもよいし、遠回りするのもよいし、立ち止まるのも可能です。問題はその節目に、キリストがともにいてくださるとの祈りと確信がともなっているのかということなのです。希死念慮にとりつかれても神から託された使命を果たした預言者の物語さえあります。そうであれば今のわたしたちもまた、キリストに従うわざをかけがえのない日々の中で果たしうるのではないかとの希望が生まれます。その希望は必ず実現します。さらに「ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまで決して死なない者がいる」との言葉は、『ルカによる福音書』の文言からわたしたちに向けて発信されているメッセージでもあります。荒唐無稽な文言ではなく、イエス・キリストのこの言葉がこの地上から消されないかぎり(そしてそれはあり得ないことです)、この言葉に触れた者は誰であれ、身体の滅びとしての死を恐れない者に変えられてまいります。身体の滅び以上の死を『聖書』はわたしたちに語っています。それは神との関係を絶ち、そのあゆみを「忘却の穴」へと捨ててしまうことです。しかしそのような所業は決してわたしたちにはできはしません。見せかけの全能を誇ったローマ皇帝でさえ不可能だったのです。数字は尊い道具であり重要です。しかしいのちや生き甲斐には代えられません。全世界を得るよりも大切な事柄をわたしたちは知っています。