2022年11月18日金曜日

2022年11月20日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

  ー聖霊降誕前第5主日礼拝ー

――収穫感謝日礼拝――

時間:10時30分~



説教=「実りをもたらす汗と喜び」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』23 章 35 ~ 43 節
(新約聖書 158 頁).

讃美=504,461,540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 日本の地に『聖書』の教えが伝道された波は、これまで二度あると言われています。第一にはよく知られている安土・桃山と言われるという時代、とりわけ織田信長という君主の影響が強かった頃には、所謂キリシタンの時代として訪れます。第二の波は「切支丹禁令の高札」撤去の1873(明治6)年に開花するまで、すでに幕末に居留地にいたアメリカンボードがつけた道筋に火が灯され、日本の近代化の波とともに広がります。ところによっては「リバイバル」と呼ばれる、短期間に多くの人々がキリスト教に回心するという出来事も生じ、教会への反発が却って人々の関心をもたらす事態にまでいたります。ただこの「リバイバル」という出来事。社会の混乱や伝統的な常識が破壊された、まことに混沌とした状況を背景にしており、究極的には神のなさることで人の及ぶところではないと感じます。明治以降に関して言えば、1868(明治元)年から1869(明治2)年にいたる戊辰戦争、その戦争の後に本格的に始まる、犠牲に見合わない処遇に対する不平士族の反乱、そして1877(明治10)年の西南戦争にいたるまで、年ごとに社会が揺れに揺れた時代。何が正しいかどうかの基準は、誰が天皇の側に立つかどうかにかかっています。戊辰戦争には官軍だった薩摩は、西南戦争では賊軍になります。会津は戊辰戦争では賊軍になり、西南戦争では官軍になります。市井の人々はこの大地震に揺れながら暮すほかなくなります。強制的に廃藩置県が行われ、武士の権利と暮しの保証が消し去られますと、その都度社会に反抗するほかない人々も生じます。しかし大概は捕縛されて賊徒扱いされ磔刑や梟首に処せられます。この残酷な刑は1870(明治3)年に磔刑が廃止、1879(明治12)年に梟首が廃止されるまで、人々に恐怖と深い心の傷を遺します。処刑された人々の亡骸は埋葬を赦されません。つまり、「いなかった人々」として弔うことすら赦されず、関わる親族すら間接的に処罰されることになるのです。1960年代までその苦しみは続いたとさえ言われています。
 そう考えますと本日の『聖書』の箇所で、十字架刑に処せられたイエス・キリストと二人の犯罪人との会話が描かれている福音書の描写は、劇的であるどころか異様ですらあります。ある者は「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみよ」と罵ります。その言葉は議員や兵士の言葉と寸分違うところはありません。しかしもう一人の死刑囚は「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」とたしなめた後に、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と、人の子イエスの無罪と救い主との関わりを願い求めます。この願いにイエス・キリストは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園に入る」と宣言します。苦しみを伴う刑罰以上に、この宣言は決して破られることのない喜びの約束でもあったのです。
 ところでイエス・キリストの語った「楽園」という言葉。収穫感謝日礼拝の今朝は概してふたつの解き明かしができるかと考えます。第一には『創世記』にある「天地創造」の物語にある「エデン」。人間が神との約束を破り、その関わりを歪める前に暮していた実り豊かな場所です。主なる神はエデンの地を耕すために人を置かれます。人はエデンの地を、汗を流し整えていきますが、それは決して労苦にはならず、むしろ喜びとなりました。楽園で人間は決してひもじい思いをすることはなかったでしょう。満ち足りていれば人は感謝の念こそあれ、貪ったり争ったりすることなどは考えられません。キリシタンが迫害を耐え抜いたのも、このような「ぱらいぞ」への素朴な憧れがあったからだと指摘する人さえいます。しかしそれだけではまだ不十分にも思います。
  第二には、イエス・キリストが備え給う神の国です。神の愛にあふれるその統治は、全ての死者を新たに復活させ、飢えも悲しみももたらしません。「天地創造」物語では人は死を知りません。主なる神から「善悪の知識の実を食べると死んでしまう」と言われ、不安を覚えたかも知れませんが、恐怖に慄く様子は記されません。しかし、やがて世に訪れる神の国にあっては、人は死の恐怖や苦しみを乗り越えて、祝福と喜びを授かってまいります。常識が何か知らないまま大人が殺害され、感染症や栄養失調でこどもたちが息絶えていった世にあって、同時代に同じ痛みにありながらも、毅然としてイエス・キリストに従う喜びを語った人々の福音の証しは、喜びの実りとなって今もなおわたしたちを励まし続けます。神の言葉の伝道は、その証しにつながり、後々には様々なキリスト教主義に立つ社会福祉・社会事業・教育のわざをもたらしてまいりました。わたしたちは永眠者記念礼拝、先週は幼児祝福式礼拝を献げました。集った人々の数を第一にではなく、こどもたちの笑顔、保護者の方々の笑顔、そして教会に寄せられた深い信頼にわたしたちはまず関心を寄せましょう。『マタイによる福音書』9章37節には「収穫は多いが、働き手は少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に感謝しなさい」とあります。世が乱れるほど教会は救いの場所、そして交わりとして用いられます。そのために献げられる汗は尊いものです。教会の奉仕と交わりを深く信頼し、祈り求めましょう。