2022年11月10日木曜日

2022年11月13日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

   ー聖霊降降誕節前第6主日礼拝ー

――幼児祝福式礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「天使たちの語らい」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』20 章 27 ~ 40 節
(新約 150 頁).

讃美=312,467,465(1.3),540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
  讃美歌の好みは人夫々かもしれませんが、わたしの推しは青表紙の『こどもさんびか』。童謡の「ぞうさん」で知られる阪田寛夫、「仮面ライダー」を始めとした今にも続くこどもたちのヒーローの歌を作曲した子門真人、世界的な指揮者である小澤征爾のクラスメートであり、数々のCMヒットソングを作った山本直純、といった方々が曲や詩を寄せているというだけでなく、妙に今の時代に媚びようとせず、ともすれば難しい解説が必要な『聖書』の箇所を実にシンプルに、こどもだけでなく学生や大人にも分かりやすく歌いあげているのがその理由です。例えば青表紙の讃美歌の5番ですが「かみさまは そのひとりごを よのなかにくださったほど よのひとを あいされました かみのこを しんじるものが あたらしい いのちをうけて いつまでも いきるためです」。『ヨハネによる福音書』3章16節を、これほどまでに簡素に、そして誰の耳にも残るようなやさしいメロディーラインで歌いあげた讃美歌はほかにないのではないかと思うほどです。これほどまでに簡素であれば、何歳になっても、どのようなライフステージを迎えても、困難に直面しても、病床にあっても、または生涯を全うするところの臨終の場にあっても、「ああ、神さまはいつもそばにいてくださるのだな」と想えるというものです。キリストを通した神との出会いが、過ぎ去っていく過去のものではなく、いわんや洗礼を授かったという出来事が、若いころの麻疹のようないっときの熱情のようなものでもなく、世の事々に左右されず、どこかでじんわりと続いていくような思いがいたします。
 それに較べますと、本日の『聖書』の箇所でサドカイ派と呼ばれた人々が人の子イエスに問いかける問答と申しますのは、人の一生を話題にする割には少しばかり軽い印象を受けます。確かにサドカイ派が用いている『聖書』が『創世記』から『申命記』に限られます。そしてそこでは復活の出来事が直接語られることなく、主要人物もことごとく埋葬されていく仕方で物語が節目を迎えます。それにしても、「ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女性を妻にしましたが、七人とも同じようにこどもを遺さないで死にました。最後にその女性も死にました。すると復活の時、その女性は誰の妻となるのでしょうか。七人ともその女性を妻にしたのです」。この箇所で描かれるサドカイ派の器の小ささは、子を授かることなく伴侶と死に別れた女性の悲しみを一顧だにせず、ひたすらその相続ばかりに関心を寄せているところにあります。このような結婚のしきたりは当時の財産を守るために編み出された倣いでもありますが、七人の兄弟の間をたらい回しにされた挙句、子を遺すことなく召されていく女性の痛みといったもの、寂しさといったものに、あまりにも無頓着に過ぎます。
 対してイエスは次のように答えます。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の箇所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」。この答えに、サドカイ派とは異なり、死者の復活を確信する律法学者は賛成いたします。
 ところで、イエス・キリストの語る「生きている者」とは誰を指すのでしょうか。単に今の世にあってこの場に招かれている者、あるいは今、鼻で息をしている者だけを指すのでしょうか。それは断じて違います。過ぎた週の永眠者記念礼拝で確かめたように、わたしたちからすれば天に召された者だと見なされる人々も、いのちの新しい舞台に立つものとして「生きているもの」とされます。そして、このような大人の論争からはほど遠い、こどもたちもまた、アブラハムの神・イサクの神・ヤコブの神とともに活かされている者として、遣わされた親御さんやその役を担う人々によって活かされています。いのちとはできるものでもつくるものもなく、わたしたちは授かるものだと心得ています。幼い子が感染症で倒れていく、逆縁が日常であった時代に限らず、いずれはわたしたちの生活の場から羽ばたいていくいのちとして、イエス・キリストは言われます。「『こどもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。こどものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない』。そして、こどもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された」と『マルコによる福音書』にあります。幼児祝福式は、こどもたちだけでなく、育む方々のありかた、支える方々全てを祝福し、その祝福の中で主なる神の問いかけを真摯に受けとめていく場でもあります。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」。イエス・キリストの導きに従い、『聖書』を通して、天使たちの語らいに耳を傾けてみましょう。この子たちのためにわたしたちは活かされています。