2022年10月6日木曜日

2022年10月9日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

ー聖霊降臨節第19主日礼拝 ー

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「それはわたしのことですか」 
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』14章26~31節
(新約聖書92頁).

讃美=298,3,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 SNSを用いて礼拝を中継したり、メッセージ動画を配信したりするという試み。コロナ禍の三年間、当初は「リモートワーク」という言葉の意味すらも分からなかったわたしたちでさえ、今やそれが日常化し、事務レベルの会議であれば、わざわざ出張するまでもなくモニター越しに意見を交換できるようになりました。コロナ禍により対面式のコミュニケーションが憚られる一方で、物理的な距離を問わないコミュニケーション技術が加速度的に発達してまいります。その結果、顔と顔を合わせての対話でさえ、偽名を用いたり、画像を加工したりすることも可能となりました。媒体となるネットワークによっては匿名で投稿できるものも出てきます。匿名での誹謗中傷が、人を病に陥らせるだけでなく、自死へと追い込むという社会問題も起きています。匿名となったとき、責任を問われなくなったとき、人はこうまでも粗暴になれるものかと、コミュニケーション技術が発達するほど荒む人心に肩を落とす時もあります。言葉の重さが問われなくなり、言葉が上滑りし、相手がどのように受けとめているのか気にならなくなるときほど、その言葉は暴力的にさえ響きます。当事者性を欠いた言葉ほど恐ろしいものはありません。
 ところで、神の言葉に聴き従うはずの教会でさえ例外ではありません。神を見失ったときには、その言葉が上滑りし、交わりが混乱するという事態が幾度も生じました。本日の箇所で人の子イエスは「あなたがたは皆わたしにつまずく」と、讃美の調べの後に唐突に弟子たちに語ります。「あなたがたはわたしにつまずく」ではなく「あなたがたは皆わたしにつまずく」、つまり「つまずき」はすでに弟子全員にわたる確定条項なのだと言わんばかりの言葉です。イエスのこの語りかけは『旧約聖書』に基づいており、続く言葉には「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」との、希望に満ちた復活の出来事によって拓かれた道が示されています。けれどもその折、弟子を代表するはずのペトロが「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と抗弁します。ペトロの抗弁は次の点で問題です。則ち、「たとえ、みんながつまずいても」というところ。他の仲間はさておき、というところで、すでにペトロの高慢さが顕われています。そしてこれまでペトロがつき従ってきたイエスは、ペトロには神なしに受け入れられた、単なる人としてイエスであり、たとえイエスをメシアだと告白したところで、その告白は大きく的を外していたところです。そしてさらに力を込めて言うには「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。ペトロは悪気があってこのように口走ったわけではなかったでしょう。むしろ、讃美の後でありながら、常々慕っている師匠でもあるイエスから出た言葉の真意が分からず、憤慨してつい出た言葉であったのかも知れません。しかし、この言葉が呼び水になって「皆の者も同じように言った」とあるように、一二弟子の交わりが解体されていくのです。
 悪意ではない。しかし交わりに分断を招く言葉。ペトロは自分の言葉が、他の弟子との関係を切り裂いている事実に気づきません。傷つけていることに無頓着です。これは時としてわたしたちにも重なります。ペトロが義しさを過剰に主張するほどに「羊は散ってしまう」という言葉を期せずして実現しているのです。「自分は義しい」とは反転すれば「他の人は間違っている」となります。それは心外ですから、他の弟子も同じように「自分の義しさ」を主張するところとなります。
  そのようなペトロに、イエスは語りかけます。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしを知らないというだろう」。ペトロは何を言われているのか分からないまま、事態は移ろっていきます。イエス・キリストの言葉が何を示しているのか、そして自分の言葉がどれほど当事者性を欠いた、「それはわたしのことですか」と言わんばかりの響きしか持ち得なかったか。ゲツセマネでイエスが苦しみの中で祈っているときに眠りこけるだけでなく、祭司長や律法学者、煽られ武装した群衆がイエスの身柄を拘束したときに、弟子は皆逃亡するという醜態。そして人の子イエスが不当な裁判を受けているとき、怖々とイエスの後をたどりながら、大祭司の屋敷の中庭で火に当たりつつ、女中に「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」と問われ、「分からない」と答える。鶏の声が響く中で「この人は、あの人の仲間だ」と言いふらされるのを怖れて「違う」と打ち消す。そして「確かにお前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だからだ」と指摘され、呪いの言葉さえ発しながら「知らない」と恐怖に駆られて叫ぶ。その時々に口にした言葉に明らかです。「それはあなたのことなのです」。もはやペトロの逃げ場はありません。誰よりもペトロ自らが、わだかまりとともに胸に刻むほかなかったイエス・キリストの言葉どおりになってしまったと気づき、泣き出すところではっきりしました。自分のほうから投げかけたイエス・キリストとの関わりを、恐怖の中で呪い、裏切った結果、とめどもなく流れる涙の中でペトロはイエス・キリストの出来事の当事者となりました。『聖書』の言葉の当事者としてあゆむとき、たとえ涙の中でもその道は「神の愛を証しする道」となります。その道はキリストの慰めと復活の光に包まれています。