2022年7月14日木曜日

2022年7月17日(日) 礼拝 説教(コロナ禍対策により対面式の聖日礼拝を休止します)

ー聖霊降臨節第7主日礼拝ー

緊急連絡
コロナ禍対策により聖日礼拝を休止し、
当日は、収録動画のみによる在宅礼拝といたします。
みなさまに神がともにおられますように。

説教=「神から授かる愛にあふれたわざ」 
稲山聖修牧師

聖書=ガラテヤの信徒への手紙5章2~6節.
(新約聖書349頁)

讃美= 313,420(1.2.3.5),543.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


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クリック、又はタップしてください。

【説教要旨】
「人の子ナザレのイエス」がメシア、救い主キリストだと告白する群れが広がりますと、その母体を支えながらもイエスを怖れ、十字架への道に追いやった古代ユダヤ教に属する権力者は、次にはイエスに相対したその同じ態度で初代教会の交わりを弾圧しました。ユダヤ教では神から遣わされた救い主が十字架刑に処されるなどとはあってはならないことでしたし、またイエス・キリストの生涯の中で癒され、喜びに満ちて神を讃美していった人々はほぼその時代のユダヤ教社会の常識からは何らかの理由で人格を否定され排除されていたからです。教会に集う人々も同じ。しかし人の目からすればイエスはユダヤ人でしたし、その弟子もまたユダヤ人。そして当初はユダヤ教の一分派に過ぎないと見なされていた初代教会をキリスト教として確たるものとした人物もまた、かつては律法学者であり初代教会の迫害者。そして同時にキリストの声に出会い使徒の列に加わったパウロでした。
 このパウロと人の子イエスに従った弟子との間のトラブルというよりも、本格的な論争を記しているのが『ガラテヤの信徒への手紙』という書物。初代教会の使徒のうち中心的な役割を担ったのは十字架で処刑される前のイエスをよく知る者、また実際に血縁のあるなしはともあれ「イエスの兄弟」とまで呼ばれた親しい間柄にある者でした。初代教会が育まれる中で生じた課題がこの手紙ではあらわになります。それは教会の交わりに加えられキリスト教徒となるという道筋と、キリスト教がユダヤ教をベースにしていたという事柄の関係性でした。古代ユダヤ教の場合、さまざまな戒律を尊ぶわざが日々の暮らしで求められていました。中でも食物規定はユダヤ教徒とそうでない者との関係を線引きしてしまう大きな問題となっていました。「穢れたものは食べてはいけない」と、『律法』には「食べてはいけないものリスト」まで記されます。古代社会では感染症対策の意味もあったのでしょうが、その食糧を日常的に食する者もまた「穢れた者」として食卓の交わりから遠ざけられるのが古代ユダヤ教の一般的な常識でした。ですからユダヤ教徒ではない諸国の民、すなわちわたしたちも含めての「異邦人」、ユダヤ教徒から見て「異教徒」とされる人々は古代ユダヤ教の道を通ってイエスを救い主として告白するという条件が課せられていました。しかし人の子イエスの復活前のわざを直接見聞きはしてはいないものの、キリスト教徒弾圧の最中で救いの声に撃ち倒されたパウロは、律法学者としての学識や、既得権としてのローマ帝国の市民権に特別な使命を課せられて、多彩な生活スタイルを受容した人物でもありました。ですから『ガラテヤの信徒への手紙』に記されるエルサレムの教会と、パウロが事実上導いていた教会は、広くは初代教会の枠内に入っていたとしても、その内実は外見ともに全く異なるものだったことでしょう。その点でも初代教会は多くの課題を抱えていました。
 それではこの課題の克服のためにはどのような道を進めばよいのでしょうか。それは単に人間イエスの人柄や、その出自、また人としての魅力よりも、まさしくイエスがキリストとして、救い主として世に遣わされた出来事に集中し、そしてその出来事自体が神の恵みであり、人々の間の全ての壁を超えていく爆発的な力に押し出されるところにかかっています。律法を知り尽くしたパウロは、その律法を完成する救い主としてのイエス・キリストに出会いました。イエスをキリストとして喜び迎えた人もいれば、イエスのもとを去った人もいたという福音書の記事を踏まえれば、パウロの理解は人間的な制約を突破し、交わりを新たに結ぶ神の愛の力に気づかされたと言えます。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」。『ルカによる福音書』10章25節にある「よきサマリア人の譬え」のエッセンスが、本日の箇所では凝縮されています。表向きは遠ざけたい内容の教会の話し合い。誰もが避けたい事柄から『聖書』の根幹というべき着想を授かるのは不思議です。
 現代では戦争や暗殺、飢餓や疫病。これが日常茶飯であったアフガニスタンで、個別の医療からより根源的な、飲むに適した水資源を得るための井戸掘りと灌漑用の水路の建設、そして開墾に尽力したキリスト者・中村哲医師を今の時代にあらためて思い起こします。今の日本のメディアが騒いでいる状況など、かの国ではニュースにすらなりません。自己責任論が渦巻く中批判を浴びながら、ともに働くスタッフが殺害されてなお現地に留まり、パワーシャベルを動かし、現地で後進の若者を育み、イスラームの礼拝堂である「モスク」と学校の「マドラサ」を建設した中村医師は、2019年12月14日に73歳で銃撃を受けて召されるまで力を尽くされました。明治期のキリスト者の覚悟を重ねます。かの地では65万の民のいのちが救われたとのこと。そしてその謦咳に接し、影響を受けた方々はわたしたちの教会の交わりにもおられます。「困っている人から助けてくださいと言われたら嫌だとは言えないでしょう」との声は人々の思想の壁を越えてあふれ、響きました。個人崇拝を煽る気はありません。むしろわたしたちにもイエス・キリストの種、神の言葉の種が蒔かれているのだと確信し、今をあゆみたいと願います。わたしたちは祈りをアーメンと結び、イスラームの民はアーミンと結びます。神さまに全てのいのちが祝福され、活かされる日々を感謝しましょう。