2022年6月22日水曜日

2022年6月26日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

ー聖霊降臨節第4主日礼拝ー

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂


説教=「足かせを断ち、自由にされた女性」 
稲山聖修牧師

聖書=使徒言行録 16 章 16~24 節. 
(新約聖書 245 頁)

讃美= 532,531(1,2,3),540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
  『旧約聖書』の『申命記』にいたるまでの『律法(トーラー)』では古代ユダヤ教で禁じた職業が定められてまいります。例えば神殿男娼や神殿娼婦といった、古代パレスチナにあった都市文明で、神殿を訪ねた者と肉体的な交わりを経て偶像との関係を深めようとする生業、そして同じく重大視されるのは、アブラハムの神以外の、他の神々と深い間柄の占い師に頼る、という態度です。「あなたたちは、あなたたちの神、主に従い、これを怖れ、その戒めを守り、御声を聞き、これに仕え、これにつき従わなくてはならない。他の神々の偽預言者や夢占いをする者は処刑されねばならない」。つまり占いのわざそのものが、本来は人間に未だ閉ざされている神の秘義から目を遠ざけ、都合のよい未来像を描くために用いられる、すなわち偶像を刻むという態度として排除されます。例えばイスラエルの歴史物語の中では、追い詰められた初代の国王サウルが口寄せを訪ね、導きを受けたサムエルの霊を呼び寄せ、迫る危機への対応の仕方を尋ねる場面があります。呼び出されたサムエルの霊はサウル王に「なぜこのようなことをしたのか」と憤り、王の死とその率いる軍の敗北という厳粛かつ深刻な結果を伝えます。わたしたちも夜半に道端で易を生業とする人々を見かけるときもあります。概ねそれは占いを受けた人の願望に基づいて言葉がけをして話を聴くという、素朴なカウンセリングのようなものだと思われます。しかし王が相談伺いの虜になってしまい、自らの行動に責任と自信が持てなくなって見えなくなるのは、まさしく目には見えないアブラハムの神から託された民の導きという重大な任務とそのメッセージです。つまりこの問いの中では職業の貴賎ではなくて、その働きが果たして神の御旨に適っているかどうかが問われています。とりわけそこでは、イスラエルの神への信仰、また神の恵み、『新約聖書』にあってはイエス・キリストの恵みがオカルトとなるのかどうかという古代の人々にも深刻な問いかけとなります。福音は人を解放しますが、オカルトは人を心身両面から縛りあげるからです。
 イエス・キリストのメッセージ、また使徒の証しがオカルトに映るかどうかとの問題。これは初代教会では実に深刻で、『使徒言行録』にも度々描かれます。それでは「福音は人を解放し、オカルトは人を縛る」という事態は何を示すのでしょうか。
 書き手をも含めたところの「わたしたち」が祈りの場に赴く中、本日の箇所では「使徒パウロとシラス」が「占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った」との言葉から物語が始まります。この女性は「占いをして主人たちに多くの利益を得させていた」とありますから、主人、言い換えれば「親方たち」の背後にはアンダーグラウンドな組織があって、その集団の資金源になり得る仕事に従事していたとも読みとれます。その過酷な暮らしの中、この女性の奴隷は占い師というよりは虐げられた女性の眼差しに基づいて「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです!」と叫びます。その姿は福音書に描かれる悪霊憑きに似ていますが、社会悪という点ではさらに質が悪いというものです。この女性は幾日もこう呼ばわった結果、パウロは「たまりかねて」とありますが、むしろ「看過できなくなり」「無視できなくなり」との言葉が適切かも知れません。「イエス・キリストの名によって命じる。この女性から出て行け」。すると即座にこの霊は出て行ったとあるのですが、本日の箇所には後日談があります。親方衆率いる集団の、事実上の金づるであったこの女性から、占いの力がなくなった結果、パウロとシラスは捕らえられ、役人に引き渡して言うには「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させている。ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れも実行も許されない風習を宣伝している」。本当のところ、この告発は親方自らに帰るはずです。パウロとシラスは鞭打ちの刑に処され、もっとも奥まったところにある牢に繋がれ、足かせをはめられた、とあります。いわば極悪人扱いです。しかしその後、二人は真夜中に讃美の歌を歌い神に祈っていたと記されます。思うにこれは、金づるとして用済みとなり、結果として解放された先の女性の奴隷の喜びにも重なるのではないでしょうか。この二人の使徒は、かの占いのわざを強要されるばかりで手元には日銭すらも残らなかった、あの女性の奴隷に代わって、今や囚われの身となりました。しかしキリストが人々の過ちを背負って十字架を担われたその姿にパウロとシラスはその身を重ねながら、幾度も繰り返し「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と響いた声にイエス・キリストのわざを重ねて、少しでもイエス・キリストの使徒に相応しく証しを立てることができた喜びを、聖霊から授かったに違いありません。獄中でその讃美は響き、次の道を拓きます。
 新型感染症の流行が落ち着くに従って、原発事故の強制避難区域が解除されるに従い、またウクライナ戦争に端を発した経済活動の世界的な混乱の中で、わたしたちには心ならずもという生業に身をやつす時が訪れるかもしれません。あるいは実はそうだったと、その事実がはっきりするかもしれません。しかし主なる神はこの女性の奴隷のように足かせを断って、その身に担ってくださります。教会で献げられる讃美は、奥まった部屋で献げられる祈りでもあります。主なる神の希望は人の絶望に勝利します。