2022年3月10日木曜日

2022年3月13日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

 ―受難節第2主日礼拝―


説教=「ただ赦しあえるように祈る」
稲山聖修牧師

聖書=マルコによる福音書 3 章 20~27 節.
(新約聖書 66 頁).

讃美= 452(1.3),519(1.3),542. 
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
  2月24日に始まったロシア・ウクライナ戦争は、兄弟ともいえる二つの民が干戈を交えるにいたり、プーチン大統領は核兵器の使用を仄めかし原子力発電所を攻撃するなど国際条約と次々と破る中、あたかも21世紀に再現された「第二次世界大戦」が報道される毎に、わたしたちは胸を痛め主の平安を祈るほかありません。ウクライナのゼレンスキー大統領は東欧ユダヤ人、アシュケナジームと呼ばれ親戚の多くをナチスの絶滅収容所で失い、父親はソ連軍の兵士として従軍した系譜に立ちます。ウクライナ語とロシア語は近い関係にあり意思疎通も難しくはありません。ですから中にはこの戦争で家族が分断され敵味方に分かれてしまう悲劇に見舞われる方もおり、欧州諸国は難民の受け入れに全力を注いでいます。
 しかし一方でロシア国内でも亀裂が生じ始めています。契機となっているのがメディア。概してテレビに情報を依存する人ほどプーチン支持者が多いと言われています。ロシア国内のテレビのニュースではウクライナの様子すら滅多に報道されません。他方でSNSでは次々と情報が入ってきます。ロシア国外に暮らす人も同様です。情報を手に入れる媒体に応じて、国際社会に核兵器の使用可能性を公言したプーチンを支持する側と戦争反対を叫ぶ側に分断される事態が起きています。力や圧力による支配は一見強固に見えても思いがけず瓦解する可能性を常にはらんでいます。
 本日の『聖書』の箇所では人の子イエスをめぐる親族のありようが描かれます。先ほど述べた分断とは異なるところは、これは国家による分断ではない、というところです。主イエスが12人の弟子を選んだ後に記されるのは「群衆が集まり、一同は食する暇もないほどだった」。『マルコによる福音書』ではこれまで一貫して人の子イエスの癒しの物語が記されてきました。したがって名もなき民の間にはイエスこそ救い主だ、神の子だとの評判が立ったことでしょう。しかし同時にそのような評判が立つと困る者も現れます。それはこれまで人の子イエスが歩んできた道を追いかけてきた人々の態度に眉をひそめる、既成秩序から成るところの律法学者やファリサイ派の一部、またヘロデ王の息子たちのとりまきです。わざわざエルサレムからガリラヤまで来て「気が変になった男」「悪霊の力で悪霊を追い出す」との噂を流したのはこのようなイエス・キリストの歩みに反感を覚える人々だったかもしれません。すさまじい情報戦です。それでは人の子イエスの家族はどの説に与したのでしょう。「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえにきた。『あの男は気が変になっている』と言われていたから」。残念ながら親族は人の子イエスの働きに理解を示し受け入れるどころか、身柄を拘束しにやってきました。血は水よりも濃いとわたしたちは口にしますが、福音書の世界では必ずしもその言葉は当てはまりません。暮らしの秩序を乱す者として、身内からイエスは縛られ身動きを封じられようとするのです。そのただ中でイエス・キリストは語ります。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成りたたない。家が内輪で争えば、その家は成りたたない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず滅びてしまう」。主にある交わりを分断しようとの試みは、返す刀で自らの交わりをも分断し、ばらばらに解体してしまうのです。そこに待っているのは自縄自縛の孤独という名の底なし沼です。
 それではイエス・キリストはどこに神の国のモデルとなる交わりを見出したというのでしょうか。それは自らの母親と兄弟姉妹、つまり血縁者が宣教の旅に出たイエスを捜し求める中、イエスは「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」との宣言するところにあります。イエス・キリストは決して家族の関わりを否定しません。むしろその愛情を徹底させて、血縁のない人々の群れもまた、自らの名によって孤独を感じる必要のない交わりを授け、その交わりに喜びを広めていく力を注がれていくのです。それはいつか必ず、自らを縛りあげるところの身内の者にも伝わるに違いありません。『創世記』にある「アダムの系図」では、世にあるすべての人々はアダムに源をもつ家族として描かれます。後にイスラエルの民と敵対する人々でさえその系図に属します。アダムとは固有の名であると同時に「人」をも意味します。係累を絶っても絶たれても、身内に諍いがあろうとも、神の愛は必ずその諍いにうち勝ち勝利します。なぜならそこには赦しがあるからです。イエス・キリストは自ら痛みと苦しみを担い、わたしたちの家族や世の民の争いの壁を取り除き、和解させるお方です。神の平和を祈りましょう。