2020年1月5日日曜日

2020年1月5日(日) 説教

「神の避難小屋から見た世界」
『ヨハネによる福音書』1章14~18節
説教:稲山聖修牧師

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。短いこの一節にある「宿る」という言葉。これは草原を縦横に行き来した遊牧民たちの用いた天幕、または旧約聖書の物語にある族長やモーセに率いられた民が野で世を明かす際に用いるような天幕を張る様子が示される。そこには時には人の暮らしを脅かしかねない自然の中で、人の交わりを育み、逃れの場とし、時に新しい出会いをもたらしさえする。勿論その営みは過酷な自然や夜の闇の否定でもない。むしろ厳しさを伴う創られた世界の中での暮らしを赦してもらうために、そのような幕屋の建設を赦していただく。神に対する慎みと畏れの中で、いのちをつなぐことへの感謝が生まれる。その理由は「わたしたちはその栄光を見た」と書き手が述べるところにある。人々は荒野を蔑まず、闇そのものを否定もしなかった。思うに荒野や闇もまた、神の御手が及ぶのであり、永遠に続きはしないからである。ここに光は尊くて闇は悪だというような浅薄な考えは止めを刺される。光やいのち、あたたかさとの関わりの中で、荒野や闇は、いのちの光を際立たせる意味合いをもつ。「わたしたちはその栄光を見た」。その栄光とは。「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。
ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げていった。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』と、わたしが言ったのは、この方のことである」。『ヨハネによる福音書』で、洗礼者ヨハネはこのように語る。ほんの少しの戸惑いが生まれる。それはこの箇所で洗礼者ヨハネが「わたしの後から来られる方は、わたしより先におられたからである」と主張しているからだ。これはわたしたちが時計を見て確認する時間とは異なる時が流れている。なぜ洗礼者ヨハネが、他の福音書のクリスマス物語にあるように、まずヨハネが生まれ、そしてイエスが生まれるというような順序を逆転して述べているのだろうか。それは『ヨハネによる福音書』では父なる神の御子としての、全ての時を超えた超越的な特質が「わたしたちの間に宿られた」という、人の目には起こり得ない事柄を物語ろうと懸命になっているからではないか。『マタイによる福音書』や『ルカによる福音書』では「処女降誕」という表現で語ろうとしている事柄を『ヨハネによる福音書』では「わたしより先におられた方が、わたしの後から来られる」「わたしたちの只中に宿られた」という言葉を用いて語ろうとしている。なぜそのような回り道をするような表現が用いられたのか。

『ヨハネによる福音書』の生まれた時代には、もはや歴史的に人の子イエスを物語るという段階から一歩踏み込んで、三つの福音書を踏まえ、旧約聖書を踏まえながらも、誰に語って聞かせるのかというところにエネルギーを割いていったからだろう。話の聴き手の殆どは、世の中が善と悪との対立の中で流転して動きながら、その中で人間の運命について思いを馳せていた。しかし書き手は懸命になって証しを試みる。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、さらに恵みを受けた」。神が遣わされたいのちの光と関わることにより、闇そのものにも深い役割が備えられる。それは陰影を帯びることによって、この宇宙万物の中のいのちが、より立体的に迫ってくるのだ。11節で書き手は旧約聖書に言及する。「律法はモーセを通して与えられた」が、「恵みと真理はイエス・キリストを通して与えられた」。モーセとキリストがこの箇所では並置される。イスラエルの民、ユダヤの民にはモーセを通して律法が備えられている。そのように、あなたがた異邦人には「恵みと真理がイエス・キリストを通して与えられているのだ」。「敢えて多くは語らない。この人を見なさい」との言葉が響く。混沌とした時代はいつまで続くのだろうか。そのような問題意識は『ヨハネによる福音書』の書き手とわたしたち共通の苦悩である。神などどこにいるという叫びの中で、書き手は告げる。「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。イエス・キリストを見つめなさい、その招きに応えなさいとの声が、洗礼者ヨハネの口を通して響き渡っている。「いまだかつて、神を見た者はいない」。この言葉の中で、現代を生きるわたしたちもさまざまな試練を味わう。けれどもイエス・キリストという避難小屋が目の前には建っている。吹雪がこようと地図のルートを見失おうと、いのちの明かりが灯る避難小屋はすぐ近くにあるのだ。