2019年9月15日日曜日

2019年9月15日(日) 長寿感謝の日礼拝 説教

『ルカによる福音書』18章1~8節
「祈りは必ず聴かれる」
説教:稲山聖修牧師

今朝の「やもめと裁判官の譬え」には、義しい人の姿はどこにも描かれない。むしろ職務本来のあり方からはかけ離れた、「神を畏れず、人を人とも思わない裁判官」が軸になる。この裁判官は18章5節では「不正な裁判官」とさえ言われる。実はこの「不正」という言葉が聖書もの用いられ方を考えると本日の聖書箇所は実に興味深い展開を秘めていることが分かる。
もとより「不正」という言葉が裁判や裁きにあたって用いられる場合、それは裁判に寄せられる信頼そのものを台無しにするわざとなる。『サムエル記』で先見者サムエルは老いて後、自らの務めを二人の息子に託する。しかし二人の息子は「不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げた」ある。『サムエル記』の「不正」は批判されるべき、糾されるべき「不正」であり、堤に空いた穴のような扱いとなる。これが民の不信を招き、イスラエルの民は神との契約よりも王を絶対視するあり方を選ぶ。滅びへの序局となるのがサムエルの息子の不正だ。

しかしイエス・キリストの譬え話における裁判官の「不正」の場合、その意味は変わってくる。不正な裁判官と向き合うのは一人のやもめ。伴侶を失った寡婦は貧しい身の上であり、正しさが世にあってはそのものとしては通じないことを、自らの傷みを通して知り抜いている。その女性が訴えるには「わたしを守ってください」。不正な裁判官は、正しい裁判をこのやもめから求められた。裁判官はその粘り強さに次第に押されていきます。「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」。不正な裁判官は自らの不正のゆえに己を砕かれて、いつしかやもめを虐げる諸々の問題と向き合うこととなる。きっかけがどうであれ、次第にやもめを支える重要な役割を担っていくことになる裁判官。今や彼は神の正しさを表わす器として用いられていく。イエス・キリストはやもめの切実な訴えを「祈り」に重ねているのは明らかだ。教条主義的に人を裁くばかりの人々の見通しすら、神の愛の働きは超えていく。
「この不正な裁判官の言いぐさを聴きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」。神とのまじわりの中で、生きづらさや傷みを抱えたところのやもめの訴えに耳を傾けた不正な裁判官は、その不正さのために神に用いられるという逆転が起きる。イエス・キリストのリアリズムがこの箇所には描かれる。
思えば毀誉褒貶、世の中の様々な評判は絶えず移ろう。その評判に基づいて善悪が振りかざされたとき、人間は時として邪悪な姿を露わにする。不正ではなく「邪悪」である。なぜならその判断基準は時として思い込み、即ち予断や偏見に基づく場合が殆どだからだ。神の愛を証しした人々の多くは、必ずしもその時代からはよい評判に包まれていたわけではない。名声が目的ではないからだ。「神の正しさ」は、世にあっては指差されることからは決して逃れることはできない。公民権運動で知られるキング牧師や、メキシコシティーオリンピック銀メダリストのピーター・ノーマン、また杉原千畝の生涯というものは、世の人の目からすれば、ただちに幸せだったと言えるだろうか。

本日は長寿感謝の日礼拝を迎えた。齢を重ねた方々には混沌とした人の世のさまを見極められ、だからこそ、授けられた知恵には侮れないところがある。いのちの本質を見極める視点は、頑迷固陋さにではなく、イエス・キリストに根を下ろすことによって拓かれる。長きにわたる人生の歩みは、絶えず移ろう世にあって、自らの身体の変容も受けとめながら、イエス・キリストとの関わりを確かめてこられた歩みでもある。これは若者の輝きに劣らぬ、かけがえのない宝である。不条理や困難や嘆きの中で献げられる祈りは必ず聴かれる。自己実現の願いや単に夢が適ったりすることとは異なる次元が拓かれるからだ。やもめの献げる叫びと訴えにも似た祈りと出会いの中で、不正な裁判官は、悩み苦しむ者の声を聴く神から、彼にしかできない役目を託され、そのわざに邁進したことだろう。神の愛が備える出会いと交わりの中で重ねられた齢を、一同でお祝いし、神に感謝しよう。