2019年9月1日日曜日

2019年9月1日(日) 説教

ルカによる福音書13章10~17節
「お水を飲ませてください」
説教:稲山聖修牧師


業務引継の際、後継者が円滑に働けるようマニュアルを備えるという倣いがある。アルバイトでもマニュアルがあればこその軽費の効率化がある。けれども過度なマニュアル依存は、人間の主体的な思考力と判断力を奪う。思考力や判断力が失われる代わりに登場するのが「立場」。「立場」による発言が「立場」にある者の、人としての主体性に先んじていく。立場が高くなるほど人の声が聞こえなくなっていくという病。それは人間から責任感や良心をも奪っていく。「マニュアル依存症」のもたらす症状があちこちにある。
 複数の範例を想定しないルールの理解。文脈を踏まえない言葉の受けとめ方。そのような「マニュアル依存症」に、イエス・キリストにあれこれと難癖をつける律法学者は陥っていたのかも知れない。それは今日の箇所に描かれる会堂長も重なる。会堂長は祭司や律法学者のような聖職者ではない。しかしシナゴーグ(会堂)の営繕をはかり、礼拝のプログラムを組み立てる役目があった。イエスは安息日にとあるシナゴーグで、『律法』や『預言者』という聖書の書物を解き明かしていた。そこには一八年の間、病の霊に取憑かれていた女性がいた。生活共同体からは疎外され、女性として扱われなかった人だ。イエス・キリストは女性の身体に障りのないよう声をかけ、「婦人よ、病気は治った」と語りかけ、身体に手を置いた。病の苦しみから解放された女性は、活き活きと神をほめ讃えた。これこそ本来はシナゴーグを満たすにふさわしい声。けれども会堂長の態度は異なった。
会堂長はイエスのわざに腹を立て、群衆に「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」。会堂長には聖書の言葉が誰と関わっているのか、安息日が誰と関係しているのかが見えていない。この「マニュアル依存症」は、想定外の事態に堪えられない脆さをも示している。


返すキリストの言葉は厳しい。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日には牛やろばを飼葉桶から解いて、水を飲ませに引いていくではないか。この女性はアブラハムの娘、すなわちわたしたちの同胞であるのに、一八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」。イエス・キリストの言葉には、実は劇薬が含まれている。それは、女性の癒しを非難した会堂長をはじめとした人々であっても、安息日には牛やろばを飼葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くだろう、という箇所。聖書を神が人に備えた祝福の約束としてではなく、暮しの手引き書としか受けとめられないのであれば、たとえ安息日に飼葉桶から解いて、水を飲ませにいったところで、牛やろばは決して水を飲むことはないだろうという意を暗に含むからだ。家畜に向かうように上から目線で、かつマニュアル依存症に罹っているのであれば、どのような善意から出た働きであれ、生ける者は決して水を飲むことはないのである。わたしたちのありかたにも向けられているイエス・キリストの指摘である。切なる「お水を飲ませてください」との思いがなければ、あらゆる労力も空回りになってしまう。そしてわだかまりをもたらす。そしていつしか一人またひとりと人が離れていく。

そうかと言ってこのような依存症に取りつかれた人を排除するのも問題だ。キリストの鋭い指摘を受けて「反対者は皆恥じ入った」。反対者はキリストの言葉に激しく憤り、殺害を企てたわけでは決してない。イエス・キリストが聖書の解き明かしを行ったシナゴーグでは、一八年という長患いの病を癒された女性を通して、これまで通りの倣いに即すほかなかった人々のあり方に風穴が空くのである。神の愛の力であるところの聖霊は、慣わしやマニュアルに縛られて反対する他なかった人々をも、様々な関わりの中でキリストとの交わりをもたらした。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」と使徒パウロは語った。キリストの振る舞いに反対した人々も、いつしか新たにされていったに違いない。わたしたちの暮しの身近なところには、常に「いのちのお水を飲ませてください」という声が響いている。その声のありかは決してマニュアルには記されず、またナビゲーションシステムにも探知されない。祈りはその声に耳を傾けることでもある。教会の課題はその祈りを尊ぶことにもある。そう考えれば、わたしたちに授けられた役目は決して終わることがないのである。神に感謝しよう。