2018年8月19日日曜日

2018年8月19日(日) 説教「神の平和は時にかなった実を結ぶ」稲山聖修牧師

2018年8月19日
「神の平和は時にかなった実を結ぶ」
ローマの信徒への手紙10章5~8節
マルコによる福音書12章1節~12節

稲山聖修牧師

「ぶどうの木」は聖書の中では様々なたとえに用いられる。それは神の恵みにあふれた果実であるとともに、神との絆を絶たれた人々には欲望の対象ともなった。それは『列王記』21章にある「ナボトのぶどう畑」の箇所にもあるように、旧約聖書では実に多く描かれる。福音書の書き手は、このような物語を決して軽んじることなく、しっかりとイエス・キリストの教えと関連づける。

 「イエスは、たとえで彼らに話し始められた。『ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を得るために、僕を農夫たちのもとに送った』」。主イエスの語ったぶどう園のオーナーのたとえ話。この主人、ぶどう園を開拓する上では実に緻密にプランを築く。
 しかしながらこの主人は、ぶどう園を貸し与えた農夫たちに対して過剰な信頼を寄せているように見える。人事の面ではあまりにも無防備で、ぶどう園の個々の働きだけでなく、運営権まで農夫に委ね旅に出てしまう。その後を辿ると、主人不在の所での農夫たちの貪欲さが細かく描かれる。「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫のところに送った」。第一の僕は捕まえられて袋叩きにされ、何も持たせられないで帰される。第二の僕は顔を殴られ侮辱される。第三の僕は殺害され、四度目には多くの僕たちを送ったが、殴られたり、殺害される。
しかしこのわきの甘いぶどう畑の主人を父なる神のたとえとして重ねると、この甘さが全く異なる意味合いを帯びる。飢えた獣のような農夫たちに対してさえ、一たび畑を委ねたならば何があっても前言を撤回しない強靭な意志。しかし農夫には、その堅忍不抜の意志の示すところが分からない。「まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った」。手塩にかけて育てた息子をあえて、農夫に遣わすのは、主人としては想像を絶する覚悟がある。農夫はどのように応じたか。「『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外に放り出してしまった」。イザヤ書2章4節には「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」と農夫を平和の象徴として用いるが、イエス・キリストはこの平和の象徴であるはずの「農夫」でさえ、ぶどう園の主人、ぶどう園のオーナーに重ねられた主なる神との関わりを見失うとするならば、暴力に及ぶ狂気を潜めているという解き証しを経て、祭司長や律法学者、長老たちに迫る。
「さて、ぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻ってきて農夫を殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」。要となるのは、ぶどう園を「ほかの人たちに与える」という一節だ。「ほかの人たち」とは、権力者から退けられていた「その他大勢の人々」に他ならない。時代の捨て石扱いされた人々が、家を建てるにあたって不可欠な土台として用いられる。その頭となるのがイエス・キリストであることに、黙して心に刻むべきである。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」と語るパウロ。キリストと出会い、神との関わりに目覚めたところの、捨て石扱いされた方々の只中にいますキリストに牽引されてきたのが73年間の教会のあゆみ。時に適った実を結ぶ神の平和。わたしたちはそのバトンを渡されている。憂いや嘆きからは何も出てこない。イチジクのような豊かな実りであれ、からし種のような実りであれ、将来は開かれているのだ。神の国を先取る平和は、シャーロームとしてわたしたちに迫るのだ。

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