2018年5月6日日曜日

2018年5月6日(日)説教「神の愛につつまれる喜び」稲山聖修牧師

2018年5月6日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「神の愛につつまれる喜び」
『ローマの信徒への手紙』8章26~28節
『ヨハネによる福音書』16章 16~22節
稲山聖修牧師

 
『ヨハネによる福音書』が向き合った課題に終末遅延の問題があった。権力者の迫害と支配のもと、苦しみに耐えながら神の支配の訪れを待つ民には、「御国を来たらせ給え」あるいは「マラナ・タ(主イエスよ、来てください)」との切なる祈りがもたらされた。
 旧約聖書では、納得できない苦しみを、原因にさかのぼり本人に納得させようとする一面がある。主イエスの時代、そして教会の中でも繰り返されてきた原罪という理解。これは因果応報の理解につながる。確かにこの理解では、本人がどうしてその苦しみを味わっているのかについて、痛みを伴わない立場からあれこれと論じられるが、どこか上から目線だ。『ヨブ記』に描かれるヨブの友人も、当事者性ぬきでヨブの苦しみをあれこれ論じる。それでは真の癒しは得られない。
 神の支配の訪れがすでに訪れてはいるものの、未だ完成していない世にあって『ヨハネによる福音書』はわたしたちに特別の道筋を示そうとする。本日の箇所は「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」との言葉から始まる。この言葉は、イエス・キリストが十字架で処刑され、墓に葬られ、そして三日の後に復活した後に、復活された主イエスが天に昇られ、神の支配の訪れとともに世の完成を祝い、世に再び来られるまでの期間を指すという。終末遅延の問題は、天地創造の時と天地万物を含めた世が神の支配により完成する「時の間」という中間時との理解を教会にもたらした。「時の間」にあって、わたしたちが味わう悲しみを『ヨハネによる福音書』の書き手は「女性の産みの苦しみ」に重ねる。神の支配と結びついた喜びと悲しみを「女性の産みの苦しみ」に重ねるのは実に画期的だった。
旧約聖書で描かれる女性の立場。女性が蔑まれ、時に人格すら認められないという事態がある。その女性がイエス・キリストの再臨を待ち望む、神の支配の完成を待ち望む人々の譬えとされる。
 それだけではない。嬰児を世に送り出すわざは将来へと展望を拓く。悲しみの諸元を過去にさかのぼり説明せずに、神の計画のうちに祝福された悲しみという、将来に向かう喜びが秘められた状態として肯定する。第三には、誕生した嬰児の特性は一切問われていない。『ヨハネによる福音書』の場合は女児であれ男児であれ、特別な課題があれ、いのちの誕生は全て喜びだと述べる。日々の苦しみ以上の苦しみ、悲しみ以上の悲しみである「イエス・キリストがおられない」という異常事態の中で、教会は隠された恵みに気づきつつ歩むという新しい段階を迎えた。

イエス・キリストはこの中間時に、ご自身の働きを通して明らかにされた神の愛の力である聖霊をわたしたちに贈ってくださった。パウロは『ローマの信徒への手紙』で次のように語る。それは「霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもってとりなしてくださるからです」。パウロは人々が言葉で祈ることすら能わない苦しみに遭うのを見抜いてこの手紙を書く。続いて「人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます」。これはキリストに示された神自らを示す。「霊は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」。聖書は主の御心にかなった悲しみと願いを強調する。この世をキリストを通して肯定し神の支配と固く結ぶ。悲しみだけでなく、疑いと猜疑のない世界もまた、神の支配のもつ特性だ。わたしたちは世の現実を、神の愛につつまれて受けとめたい。聖霊の風が、五月の風のように、行く手を遮る霧を晴らしてくださるからだ。