2017年12月24日日曜日

2017年12月24日「開かれた恵みのとびら」 稲山聖修牧師

2017年12月24日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「開かれた恵みのとびら」
『ルカによる福音書』2章8~21節
稲山聖修牧師

創世記の族長物語に描かれる羊飼い。アブラハムに導かれ、家畜の世話をしつつ旅を続けた人々。その行くところ神の祝福があった。転じて土地は神に属し、部族全体の居場所と出会いの豊かさを湛えていた。それからほぼ2000年を経たクリスマス物語に描かれる羊飼い。この羊飼いは、領主、即ち大地主の農場で働く労働者に過ぎない。それだけではなく、皇帝アウグストゥスによる人口調査の勅令の適用外にあった。人として数えもされなかった羊飼いの暮し向きは果たして。
「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」。果たして羊飼いが夜通し羊の群れの番をしていたのは、羊を護るためだけであったのか。
例えば。ホームレスの方々は、凍死や暴力から逃れるため、厳寒の夜に身体に毛布や布団を巻いて一晩中歩き回るという。朝日が昇るころに眠りに就く人々。丸腰のホームレスは身を護るために夜通し歩かなければならない。羊飼いたちは羊を護るだけでなく、自らを守るために夜通し羊の群れの番をしなければならなかったかもしれない。人の力による光の影に隠れてしまっている人々を、福音書の書き手は物語の舞台へと招く。
「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」。主の栄光に包まれた羊飼いたちは主の栄光を前にして恐怖する。人は神の栄光を前に直ちに喜びに包まれるのではなくて、恐怖し狼狽える。主の栄光を前にしてあらゆる人生設計や、日々の暮らしの段取りや拠り所が突き崩され、狼狽えるほかはない。その中で次の声が響く。「恐れるな、わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの街で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。天使の告げる「民全体」とは、皇帝の勅令の中でも人として扱われない人々、言葉の異なる人々、ユダヤ人も異邦人も全てを指す。関係が分断され、棄民扱いされる者と皇帝とが全て等しい地平に置かれ、救い主を中心とした交わりを新たに創造する。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。聖書に描かれる全ての人々が「民全体」として数えられる。アブラハムの神による日々の糧の再分配が、神の国の実現を目指して始まる。
それだけではない。「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ』」。無力な羊飼いたちは、ひときわ神と深く関係づけられる。天の大軍はローマの軍団でさえ無力化する力を秘めているからだ。聖書は世俗の現実を無視しない。その中心に据えられるのは「地には平和、御心に適う人にあれ」。抑圧と暴力装置による抑圧と恐怖による平和ではなく「御心に適う人」に神の平和が授けられる。この出来事によって、暮しの不安と恐怖によって土地に縛られていた羊飼いたちの態度が一変し、「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った」。救い主の訪れが告げられた後、羊飼いたちは極めて雄弁に、これまでとは異なる世界へ足を踏み入れようと、実に積極的なあり方へと変貌する。「そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」。もっとも虐げられたところに置かれていたはずの人々に、神の恵みの扉は開かれた。
 世の誉れを中心にした繁栄とは反対に、主にある貧しさは、人々を強く結びつける力を秘めている。「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」とは『ルカによる福音書』6章20節にある山上の垂訓の箇所だ。クリスマスの喜びを深く噛みしめるわたしたちである。