2017年12月17日日曜日

2017年12月17日「悲しみが喜びに変わるとき」 稲山聖修牧師

2017年12月17日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「悲しみが喜びに変わるとき」
『ルカによる福音書』2章1~7節
稲山聖修牧師

 『ルカによる福音書』の書き手はローマ帝国の支配秩序を明晰に論じる。皇帝アウグストゥスを頂点とし、その下にはシリア州総督キリニウスを記す。さらにその下でヘロデ大王が傀儡政権として君臨した。主イエスが成長し、十字架と復活、昇天の出来事から50年ほどの時を経て『ルカによる福音書』が成立する。この福音書は冒頭に「テオフィロ」というローマ帝国の高級官僚への献呈辞を冠する割にはローマ帝国の統治原理を突き放して論じている。
 「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」。勅令は服従なしには処罰される。「これは、キリニウスがシリア州の総督であったときの行われた最初の住民登録であった」。人頭税を効率的に徴収するアイデアの実現。納税申告のために日常を中断して無理やり帰郷する旅路は殺気立ち、誰にも目もくれない集団となる。「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った」。産み月に入っているマリアさえこの申告を免除や延期を赦されない。そして故郷の誰もこの夫婦を顧みない。同じような境遇の中で母子ともに命を脅かされた人が果たして何人いたか。
詩人の栗原貞子が描く『生ましめんかな』は被爆直後の夜、避難所となったビルの地下室で産まれたみどり児と、重傷をおしてお産を助け、力尽きた助産婦の姿を対照的かつ荘厳に描く。だがしかし、あの凄惨な場所でさえ助産婦はいたのだ。『ルカによる福音書』のクリスマス物語にはマリアを気遣う姿はどこにもない。見方を変えれば、核爆弾の投下されたその日の夜の地下室にも増して、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」という一文は、皇帝の勅令の異様さと暴力、そしてマリアとヨセフのこの世的な無力さを物語っている。それでは、マリアとヨセフ、そして幼子イエスは、吹き荒れる世の権力のなすがままにされるだけだったのか。そうではなかったことを、マリアの神讃美の歌からわたしたちは知る。
マリアは世の権力者に対する神の国の審判を神讃美とともに歌う。「主はその腕で力を奮い、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で観たし、富める者を空腹で追い返す」。この歌は、神の国ならではの自由と平等を先取りして、世のいかなる革命歌よりも高らかに人々の解放を歌い、力強く神を讃えつつ、救い主の誕生を祝う。いのちがけで出産を助ける助産婦すらいない、家畜小屋の飼い葉桶をつつむ神の栄光が『生ましめんかな』の世界をも照らし、息絶えた人々をいのちと甦りの希望の光につつむ。マリアの神讃美の歌は、幾度も続いたユダヤの民の対ローマ戦争を越えて、ローマ帝国最後のキリスト教迫害者ユリアヌス帝の最期の言葉に結実する。「ガリラヤ人よ、汝は勝てり」。迫害者の臨終にそう言わしめた勝利者キリストの誕生が近づいている。飼い葉桶に眠るキリストにあって、人には癒しがたい悲しみでさえ、神の恵みにあふれた深い喜びに変えられる。その深い癒しと平和を導く力を深く信頼しつつ、わたしたちはクリスマスの訪れを待ち望む。