2017年8月6日日曜日

2017年8月6日「いつわりの平和、まことの平和」稲山聖修牧師

聖書箇所:エレミヤ書28章13~17節、ローマの信徒への手紙2章2~10節
 
あの日から72年目の朝。聖書で言う「平和」を意味する言葉には三つ。ギリシア語「エイレーネー」、ラテン語の「パークス」。しかしこの平和は本来戦時間平和を指す。20世紀、わたしたちの国は日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、支那事変、アジア・太平洋戦争と六度の戦争を経た。戦争と戦争の間を指すのがエイレーネー本来の意味。破れと不安に満ちた平和だ。
 エレミヤの時代、この破れに満ちた平和を、恒久的な平和のように語る人々がユダ王国に現れる。アッシリアとエジプト、そしてバビロニアという超大国に挟まれた時代のユダ王国ではこのような人々がもて囃された。例えばエレミヤと対決したハナンヤ。彼は人々に告げる。「イスラエルの神、の主はこう言われる。わたしはバビロンの王の軛を打ち砕く」。対して、エレミヤは長い関わりをもつ大国エジプトにおもねる人々に語る。「万軍の主はこう言われる。お前たちがわたしの言葉に聴き従わなかったので、見よ、わたしはわたしの僕ネブカドレツァルに命じて、北の諸民族を動員させ、彼らのこの地を襲わせ、ことごとく滅ぼしつくさせると主は言われる」。すでに第一次バビロン捕囚が行われたにも拘わらず、エジプトにおもねり続ける人々にバビロニア王国の王は神の僕である!と説く。人々の憎悪はエレミヤに向かう。その急先鋒がハナンヤだった。イスラエルの民は、それがユダ王国という小国に衰えたとしても、神の平和にいたるには徹底的に砕かれなければならない。徹底的に砕かれるところから神の平和、シャーロームは始まるというメッセージが聞き取れる。エイレーネーが神のエイレーネーとなるためには、祖国はおろか、時には言葉も文化も民としての伝統も損なわれる中でエレミヤは語り、イスラエルの民は救い主の訪れを待つよりほかにはなかった。
旧約聖書に通暁したパウロは記す。「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身をも罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」。人を裁くな、と主イエスの言葉にあるが、これは単に個人の間で第三者を決めつけてはいけないばかりか、「裁き」とは生殺与奪という、本来は創造主である神がなすべき事柄であり、人には属してはならない事柄であり、虐げられた者を弁護するという力を発揮するわざ・人には決して及ぶことのないわざであるとの確信がある。神の裁きは必ず神の忍耐を伴う。だからこそ、神の裁きを論じる今朝の箇所で、神の裁きが悔い改めに導く神の憐みに繋がり、慈愛と寛容と忍耐と不可分のものとされる。7節にある「忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります」とある。これは因果応報の理ではなく、主なる神が生きとし生けるものすべて、ご自身がいのちを与えた全ての被造物に心を寄せている証しである。イエス・キリストに示された神は、自らの御心を行う者には、国は言葉の隔てなく、あるいは被造物の営み、文化としての宗教の枠さえも超え出る栄光と誉と平和を備える。神の平和を体現するイエス・キリスト。戦争の記憶の継承が心配される中、私たちはイエス・キリストという道を通し、シャーロームの尊さを身体と心に刻み込む。偽りの平和の中、熱に浮かされたように声高に不安と憎悪が煽られるとき、神の愛の中でまことの平和を作り出す者は祝福され、神のこどもと呼ばれるのだ。