2017年8月20日日曜日

2017年8月20日「いのちをわけへだてしない神」稲山聖修牧師

聖書箇所:創世記39章1~6節、ローマの信徒への手紙2章17~29節

 創世記のヨセフ物語で、ヨセフは父ヤコブの寵愛を受けながら、その愛情と天賦の才としての夢の解き明かしの力が却って仇となり、兄たちに妬まれエジプトに奴隷として売られる。そしてファラオの侍従長でポティファルに買い取られる。この物語の面白さは、丸腰の奴隷としてエジプトに売られたヨセフには常に神がともにいたところ。それだけではなく、主がヨセフのなす全てをうまく計られるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理やすべての財産をヨセフに任せた、との記事である。現在では非常識だが、ヨセフに対する猜疑心なしにポティファルは「任せてしまった」。主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福され、主人は全財産をヨセフの手に委ねてしまい、自分が食べるもの以外は全く気を遣わなかった。注目すべきはポティファルがエジプト人でありアブラハムの神を知らない点。その中でヨセフは全面的に信頼され、アブラハムの神から祝福を授かる。誰が奴隷の主人を祝福しているのかは神の秘義として隠されている。この箇所では、アブラハムの神の祝福が単にイスラエルの一族だけに限定されるのではなくて、ヨセフの主人にも及ぶところにそのスケールが窺える。礼拝後に各々遣わされた場で、私たちは空気を読むのに汲々とする。KY(クウキヲヨメナイ)と呼ばれるのを恐れる。しかしその態度は聖書のメッセージからは遠く離れていると言える。礼拝に連なる私たちは「空気」という名の同調圧力を恐れるのではなくて、神の力を信頼し神の息の窓となるのが筋であり新たな空気を作る役目を担っている。ヨセフはそのよき模範ではないだろうか。
 ところで使徒パウロが『ローマの信徒への手紙』で語るメッセージには「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています」とある。族長の世界では誡めとしての律法はないが、その物語の納められた書物は「トーラー(律法)」として重きをなす。「律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています」と記す言葉には、その時代のユダヤ教徒あるいはユダヤ教の影響を強く受けているキリスト者が、実はヨセフのように丸腰にはなれなかったと指摘される。パウロは語る。「あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている」。
確かに律法が自己弁護や自己正当化のために用いられるならば、神の救いへの道筋を示すどころか、正反対の結果を招く。聖書の言葉に救われて、人生の新しいライフステージに導かれる人もいれば、聖書を利用して無辜の民を殺める為政者もいるのは今も変わらない。さらには今朝の『ローマの信徒への手紙』の箇所と族長物語の接点は「割礼」にも及ぶ。割礼は族長物語の中でも重視されていた、神との契約のしるしである。しかしパウロの言葉は衝撃的だ。ユダヤ教徒ではないまま、イエス・キリストに示された神の愛を実践する無割礼の者が、割礼を受けながらも律法に従わない者に勝ると語るからだ。イエス・キリストは、いのちを分け隔てて優劣を問うことはなかった。それはヨセフ物語にあってすでに示されていた。あなたは聖書を読んでいるかとパウロは問うのだ。