2016年3月6日日曜日

2016年3月6日「世の別れは訣別にあらず」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録15章36~41節

三月は別れの季節。「去る者は日々に疎し」とはいえ切なさは残る。かつての律法学者サウロを導いたバルナバとパウロとの別れ。異邦人伝道をめぐるエルサレムでの使徒会議の後、二人は袂を分かつ。問題はパウロがバルナバとともに訪ねた街々でイエス・キリストの教えを受け入れた人々のアフターケアの提案を発端とする。なぜパウロはバルナバと衝突しなければならなかったのか。鍵はエルサレムの会議で決められた「使徒教令」。内容は「偶像に備えられた動物の肉と、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避ける」こと。当時偶像に備えられた肉は市場に流通していた。血抜きをせず絞め殺した動物の肉も同様。「みだらな行い」とは近親婚を示すという。この教令への態度が深い溝となる。パウロはこの決まり事に関しても教会への敷居にはしないからだ。結果パウロは孤高の道を選ぶ。
初代教会が格闘した課題は私たちとも無縁ではない。憤懣やるかたない人と、私たちは食卓を穏やかに囲めるか。もてなしの食卓が習慣になじまないとき、私たちはどうすればよいのか。ユダヤ教の影響の色濃いエルサレムの群れには、異邦人は絶えず違和感を突きつける民であった。教会が人のあらゆる節目に向き合い、主イエスの執り成しを通して赦し合う場所であるとの確信がパウロにはある。
パウロの「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」と語る言葉には、キリストとの神秘的な一体感よりも自己理解を主に委ねてきったあり方が示されているのではないだろうか。背後にはバルナバでさえ異邦人との交わりに一定の制約を設けなければならなかったことへの失意と絶望がある。聖書の言葉に活かされる体験は、この世への絶望や別れと深く関わっている。
 受難節の暦を辿るにつけて、私たちはパウロとバルナバの別れの悲しみも、イエス・キリストが自らの苦しみを通して、新たな出会いへの喜びへと切り結んでいてくださるわざに思いを馳せる。主イエスも、十字架を前にして恐怖しうめき声をあげた。救い主が自ら「見捨てられた悲しみと絶望」を担ったのだ。だから私たちは「さよならだけが人生さ」と呟く悲しみと虚しさからも解放されている。永遠の別れに勝利してくださった主イエスを信頼し、新たな再会を期して歩みを始めよう。