2016年2月14日日曜日

2016年2月14日「もろ手をあげて主なる神を讃え続けよう」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録14章1~20節

 ピシディアのアンティオキア、イコニオンで失敗に終わったかのようなパウロとバルナバの宣教活動。実は活動にはこれまで見られなかった力強さが備えられている。それは13章46節と14章3節には「勇敢に」語った、と記される。これからの旅の見通しが、駄目になるかもしれない中で、神の力を全面的に信頼する中で沸き立つ凄み。その凄みを帯びた言葉は、時には殺意すら引き起こす。例えばイコニオンでは、互いに牽制し合っていた異邦人とユダヤ人が「一緒になって」二人に石を投げつけようとする。古代ユダヤ教の倣いでは石打とは処刑を意味する。二人は首の皮一枚で難を逃れる。この道こそ伝道旅行の新たな道を開拓する。二人の使徒は同調圧力には決して屈しない。
 それはリストラで起きた出来事でも何ら変わらない。先天的に足の不自由な男性にパウロは大声で「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と語る。この癒しのわざがきっかけになり、パウロとバルナバは「生き神様」として群衆に祭りあげられる。その直後には、ピシディアのアンティオキアとイオニコンからやってきた憎悪に燃えた人々が、直ちに群衆を抱き込んでパウロに石を投げつけて気を失わせる。
 祭りあげるわざも見くだす態度も、誠実に相手に向き合う姿勢とは言い難い。いつのまにか、かけがえのない交わりが、重苦しいしがらみと化していく。私たちは受難節の日曜日を迎えた。教会がしがらみに満ちたただの集まりか、十字架の苦しみと死を通して世をあるがまま映し出し、いのちの勝利をお示しになったイエス・キリストを仰ぐ群れなのかを確かめる季節を迎えた。本日の説教題は「もろ手をあげて主なる神を讃え続けよう」とある。モーセが民を祝福し導いた際に献げた祈りの姿勢に倣っているともいわれる祝祷の姿勢。これは神に向けて、あらゆる抗いを止めること、降参することを同時に示しているという。主に委ねるとは、それまで心に根を下ろしてきた倣いや伝統を全て神に返却することである。泉北ニュータウン教会のこれからは、一重に「もろ手をあげて主なる神を讃え続けられるか」否か、二心なく隣人に仕えることができるか否かにかかっている。時代の闇を恐れずに教会は旅を続けてきた。福音を恥としなかったパウロ。失敗を恐れぬ勇気と大胆さは、その恥知らずな姿から始まる。