2026年1月9日金曜日

2026年 1月11日(日) 説教

―降誕節第3主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
説教=「天が裂けるとき」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』1 章9~11節
(新約61頁)

讃美=  21-529(333).461.21-24.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 飲み物の話と申しますと教会の礼拝には相応しくないかも知れませんが、『聖書』には果実としての「ぶどう」がふんだんに用いられます。そしてもちろんその実りを発酵させたぶどう酒、則ちワインをめぐる譬えも用いられます。有名なところでは「新しいぶどう酒の譬え」。最も初期に成立した『マルコによる福音書』にも次のように記されます。2章22節には「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は新しい革袋にいれるものだ」との言葉です。これは人の子イエスが断食を続けるヨハネの弟子、そして一部のファリサイ派を批判しての言葉ですが、ぶどう酒へと発酵する過程で泡立つぶどう汁の話はさておき、この箇所で注目すべきは「新しいぶどう酒」が「古い革袋」を破るのは常識として当然だとする前提です。何につけても新しいものは保守的なあり方を突き詰めるにしても外部からこじ開けるにしても旧来の頑なさを破って広がっていくという理解が描かれています。

 それは『旧約聖書』『創世記』に描かれる「洪水物語」にも重なるところがあります。大洪水が引き起こされる際の描写は次のようになります。「ノアの生涯の第六百年、第二の月の十七日、この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた。雨は四十日四十夜地上に降り注いだ」(『創世記』7章11節)。この箇所では大規模な自然災害とは、犯した罪に無自覚な人々を滅ぼすためであるとの古代社会特有の意味づけがされております。しかし逆の見方をすれば、このように「ことごとく裂ける」という表現は、実はこの災害が罪人にあふれた世界を新たにし直し、箱舟にいるノアやセム、ハム、ヤフェトほかその家族、多くの生き物が神の恵みのもと、新たに生き直す世へと造り変えるという世界の途方もない変容をも示しています。人の目にはその場その場の局地的な状況しか目に入りません。ですからこれからどうなるかは見通しかねるところがありますが、神の備え給う時とは自然災害でさえもそのような遠大な計画のなか、地上への審判の物語から赦しへの物語へと話そのものの意味づけを転換させてしまいます。

 それでは本日の、イエスがバプテスマのヨハネから水による洗礼を授けられた場面はどのように描写されるのでしょうか。それは「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて『霊』が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」とあります。この箇所では別段「天が裂ける」という言葉を用いなくても人の子イエスの変容は分かるというものです。それではなぜ「天が裂ける」という言葉が付加されたのでしょうか。参考までに『マタイによる福音書』も『ルカによる福音書』にも「天が開く」とは記されても「裂ける」とは記されません。『マルコによる福音書』ほどの強烈なインパクトある出来事としては記されてはいないのです。

 人の子イエスがバプテスマのヨハネから水による清めの洗礼を授かるとの出来事は、とりもなおさず人の世がそのような清めを必要としている神の愛を忘れた世界であり、イエスもまたその神の愛を忘れた者とともに歩む救い主であるとの強い示しです。その驚くべき、本来であればあり得ないはずの圧倒的な神の愛の示しが何よりも「天が裂ける」との言葉には込められています。みどり子は母親の胎を破って生まれてまいりますが、今でもその時を正確に推し量ることはできません。大地にまかれた種もまた、種の殻を破って新たな芽が出てまいりますが、その時間を正確に推し量ることはできません。イエス・キリストを道としてこそ、神の愛の力であるその霊はわたしたちに豊かに注がれるのです。それはイエス・キリストが十字架で死を迎える際にエルサレムの神殿の幕が真二つに裂けるとの描写によってより鮮やかにいのちの満ちあふれが記されます。わたしたちには人の子イエスの死としか映り得ない出来事が、いのちの復活への舞台へと移る兆しです。キリストの苦難が、世の眼差しを復活の出来事へと堅く結びます。

 本日は二十歳の祝福式を礼拝で執り行います。祝福を授かるのは西村咲恵子さんです。常々この咲恵子さんのお名前にはため息が出るほどの感銘を覚えます。つぼみはその皮を裂いて、恵みの花は咲いてまいります。わたしたちはそのような出会いによって多くを学び、多くを胸に刻み、多くの謙虚さを授けられてきました。神の愛が天を裂き、鳩のように人の子イエスを包んだ出来事から始まる多くの問いかけを、わたしたちは祈りを重ねるごとに授かり続けました。『ルカによる福音書』では人の子イエスと洗礼者ヨハネとの出会いの物語の序章として、エルサレムの神殿で語られた少年イエスの言葉はマリアとヨセフには「分からなかった」とあります。神の愛の新しさとはわたしたちには直ちには理解できません。それは人の素朴な思いを引き裂きます。しかしこの「分からなさ」を尊びながら、わたしたちは神の前での自己吟味に導かれ、教会は交わりに連なる方を受け容れる「新しい革袋」となると確信します。

2025年12月28日日曜日

2026年 1月4日(日) 説教

 ―降誕節第2主日礼拝―


時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
 
説教=「神に育まれる少年イエス」
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』2 章41~52 節
(新約104 頁)

讃美= 21-257.21-412.21-29.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


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【説教要旨】
 クリスマス物語では飼葉桶のみどり児イエスが誕生するまでの物語、つまり救い主の誕生にいたるまでの道筋を描きます。人の子イエスの誕生という劇的な出来事とは裏腹に、この物語を細かく描いている福音書とは『マタイによる福音書』もさることながら『ルカによる福音書』がその巧みさにあっては一歩突っ込んでいるように思えます。なぜならば、みどり児イエスが成長し、その後そのような経緯をたどって洗礼者ヨハネのもとで救い主としてのあゆみを始めるまでの成長物語が記されています。そのなかでもまことに興味深いのは本日の箇所の物語です。

 ローマ・カトリック教会や東方オーソドックス教会では権威ある「聖家族」として描かれる母マリア・父ヨセフですが、本日の箇所では思いもよらない息子の成長に戸惑う両親の姿が実に写実的に描かれます。貧しいながらも家族は毎年過越祭を祝うためにエルサレムへ旅を繰り返します。おそらくその負担も決して軽くはなかったと思われますが、それでも両親の背中を通してその生きざまはまことに質素な出で立ちながらも伝わるところはあったでしょう。

 ところで本日の箇所では人の子イエスの12歳を迎えた過越の祭の旅路が描かれます。今の時代の12歳と『新約聖書』の時代の12歳では時の密度が異なり、おそらく現在の少年よりは成熟していたのではないでしょうか。両親もおそらくはこの旅が家族最後の旅路であろうと考えたかも知れません。しかし事件は祭の期間が終ってから起きます。「少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった」その記事。マリアとヨセフはあろうことか息子イエスをエルサレムに置いてきてしまいました。単にマリアとヨセフがイエスを置き去りにしたとは考えられません。おそらくはそれまでの旅のパターンでは少年イエスもまた両親についてきたことでしょうが、この年になって両親が予想もしなかった行動に少年イエスは出てまいります。マリアとヨセフは一日そのままイエスがついてくるものだと思い込み、そのままナザレへと道を進んでしまいました。けれども振り返るとそこに息子の姿はありません。そのような具合ですから慌てふためきながら旅を同じくしていた親類や知人の間を捜し回りますが、そこにもおりません。それでは少年イエスは何をしていたのでしょうか。

 それはエルサレムの神殿に留まり、律法学者たちの真ん中で、その時代のユダヤ教の聖書をめぐる対話に熱中していたのです。言葉のやりとりは決して洗練されてはいなかっただろうとはいえ、その指摘に並み居る律法学者たちも目を輝かせて対話を楽しんでいたのではないでしょうか。それではこの三日間、少年イエスはどこで何をしていたのかといえば、その言葉のやりとりに惹かれた律法学者のところで寝食を整えられていたとも言えるでしょう。明らかに少年イエスは両親の保護から自立し始めました。

 この無届けの外泊に母親は当然ながら「なぜこんなことをしてくれたのですか。ご覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」と叱りつけます。しかし興奮した母の言葉に少年イエスは「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。この答えに「両親はイエスの言葉の意味が分からなかった」と福音書の書き手は記します。この箇所で明らかに少年イエスは両親の手から離れ、将来の救い主としての片鱗を見せ始めました。この謎の言葉の後に、少年イエスはともにナザレへと戻り、両親に仕えて暮らしたとあります。マリアとヨセフもまた、息子の自立には首を傾げること多々あったとの物語です。

 この物語を通して、わたしたちは未来を拓く次の世代の若者たちの言動に戸惑うように、いわゆる「聖家族」も首を傾げていたその態度に自らを重ねます。しかしその理解できない立ち振る舞いが、洗礼者ヨハネのもとで始まる救い主としての歩みに繋がってまいります。

 「最近の若い者は」という言葉。これはみなさまもご存じのように、古代エジプトの遺跡の落書きからも、古代メソポタミアの粘土板からも見つけられています。その気持ちは確かによく分かるところではありますが権威ある「聖家族」像とわたしたちの異なるところがあるとすれば、それでもなおマリアとヨセフは息子のイエスを信頼し続けたところに重なるところがあります。たとえ息子が周囲の評判としてユダヤ教の文化圏での「メシア」と呼ばれようとも、逆に「頭がおかしくなった」と囁かれようとも、幾つになってもこどもを信頼しない親はおりません。育児に必死になっている両親の姿を決して侮ることなく、むしろ救い主の成長物語の一幕に加えているところが、わたしたちの胸にも染み入るところです。巷でどのような言葉が溢れようとも、聖家族が息子を信頼したように、次の世代の背中を押してまいりましょう。人の子は神の愛に育まれて成長します。神の愛の光をわたしたちは映し出すのです。

2025年12月26日金曜日

2026年 1月1日(木祝) 元旦礼拝 説教

―2026年元旦礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 
 


説教=「委ねる道を備える神」
稲山聖修牧師

聖書=『出エジプト記』12 章43 ~51 節
(新共同訳 旧約113頁) 

讃美= 21-227,21-471,21-24.
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【説教要旨】
 太陽暦かつ共通紀元(西暦)では2026年を迎えました。1月6日まではクリスマスですので、仮にみなさまのお家にクリスマスツリーが飾ってあったとしても教会から観ればおかしいところはありません。ただし東アジアには新たな年を大いにお祝いするという習慣があります。日本や韓国では西暦の元旦が特別な意味をもちますし、中国では旧暦の正月が重んじられ日本にも多くの観光客がお見えになります。欧米に比較いたしますと東アジアの場合、近代化の時期が遅れておりますので、それぞれの国の歴史に根ざすところの礼儀作法が時にお互いの交流を勧めもすれば妨げもします。生活習慣の違いに基づく摩擦がお互いの国々の友情を妨げないようにと祈るところです。

 さて2026年の元日の礼拝で開きますのが『出エジプト記』12章43~51節、ユダヤ教徒にはわたしたちには正月以上の意味をもつ「過越の祭」の規定に関する文章です。なぜこの『出エジプト記』を開いたかと申しますと、人の子としてはユダヤ教を背景にして育ったイエス・キリストもまたこの記載を重んじ、弟子たちだけでなく直接には人の子イエスとの出会いを経なかった使徒パウロもまた当然のように重んじたという点で、元旦礼拝に相応しいと考えたからです。もちろんこの過越の祭はわたしたちにとりましてはイエス・キリストを通した神の愛によって、記された様々な制約が廃されまして、すべての民へと罪からの解放、歴史や構造に基づく束縛からの解放が声高くうたわれます。ただし「解放の物語」と申しましてもわたしたちには今ひとつピンと来ないようにも思われるのではないでしょうか。

 『出エジプト記』はアブラハムの神による奴隷解放の物語として知られておりますけれども、よくよく考えるとわたしたちはこの「解放」という言葉を「潔よし」とはしない習わしや文化に縛られています。生徒は学校や受験に縛られ、農家は土地に縛られ、会社員は企業に縛られ、公務員は国や地方自治体に縛られると申します。そのような日々を過ごす中で、働く場所での仕事を尊いものであるどころか神聖化し、それにすがるという性癖をわたしたちは持っています。仮に合理的ではなかろうともそのような組織の習慣や掟について行けない人々は仲間はずれにされる、または「常ならぬ者」として「異常者」として「個性的」の言葉の裏で扱われます。

 しかしイスラエルの民はわたしたちのこのような倣いとは正反対の態度をとります。すなわち、人々にとって大切なのはアブラハムの神の祝福のうちに開かれた道を、信頼に満ちてあゆむことであって、何が何でも一箇所に留まり続けるという態度ではありません。これをイエス・キリストとの関わりのなかで受け取り直すのであれば、まさしくキリストを信頼して、キリストに委ねて祝福された道を行くという理解へと繋がります。そう言えば、飼葉桶のイエスに黄金・乳香・没薬を献げた三人の博士たちも、夢で聞いた「ヘロデのところへ帰るな」との言葉に導かれて、別の道を通って各々の祖国へ帰っていきました。

 今年の干支は馬とされています。家畜化された馬は『聖書』では専ら軍事用に用いられるばかりですが、北米大陸に住む、実際の野生の馬は絶えず居場所を変えてまいります。アフリカのシマウマもまた同じです。同じ神の被造物であるのにも拘わらず、動物に赦されて人間には赦されない態度といえば「逃げる」という姿勢です。とりわけ捕食される側の動物には「逃げ足が速い」とはその特徴だけで捕食者に対する決定的な武器とさえなります。「逃げるは恥だが役に立つ」とはドラマにもありましたが、もともとはハンガリーの諺だとされます。

 『出エジプト記』の過越の祭の規定に記された諸々の規定にある制限をイエス・キリストが自らの内に取り込んでくださり、本来の神の愛に基づくわざである解放の視点に立ちますと、縛られた一方向に基づく考えからも自由にされます。『ヨハネによる福音書』8章32節には「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」とのイエス・キリストの言葉が刻まれます。この新しい年、わたしたちがイエス・キリストにあって逃れの道を見出すのであれば、それは単なる「逃避」に繋がる惨めな道ではなくて、主なる神が示すところの約束の地へと続く道となるに違いありません。立ちはだかる岩があれば、その岩を砕こうと留まるのも道かも知れませんが、急がば回れとばかりに迂回するという道もあります。奴隷解放の神に解き放たれた60万人とも言われるイスラエルの民は、多くの躓きを覚えながらも、二世代を経て「乳と蜜あふれる約束の土地」へと到達します。わたしたちの主イエス・キリストに祝福された2026年の年末の喜びは、すでにこの元旦から始まっています。

2025年 12月28日(日) 礼拝 説教

―降誕節第1主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 
 


説教=「いのちの御言葉われらを見捨てず」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』2 章1~12 節
(新約2頁)

讃美= 21-255,501,21-29.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
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【説教要旨】
   2025年も最後の聖日礼拝を迎えました。教会は1月6日までクリスマスを示します。救い主がお生まれになるという知らせを耳にした人々は世の秩序の大転換を予期し、これからどうなるのかと脅える人々もおりました。『マタイによる福音書』ではイエスの誕生を大いに祝福する人々と、不安を覚える人々の姿の違いを鮮やかに描きます。

 本日の箇所ではまず占星術の博士が描かれます。この人々は星の光の動きから世の政の行く末を解き明かす学者と説明すると分かりやすくなりますが、みなさまはこの説明に不自然さを感じはしないでしょうか。実は古代ユダヤ教の誡めによれば「占星術」とはイスラエルの民には固く禁じられていたはずではないか、との問いかけです。確かにユダヤ教では概して神との絶対的な関わりが軸となり、占いは決して奨励されません。しかし事情によれば世の民の行く末を解明する手立てとして受け入れられる場合もあったと申します。そのように考えますと、イエス・キリストの誕生を『旧約聖書』の預言の成就として見なすこの福音書では、占星術の博士による祝福は実に驚くべき出来事であるばかりか、本来なら片隅へと追いやられていた異邦人が救い主の誕生を祝いにきたとの描写により、イエス・キリストの誕生の祝福が古代ユダヤ教の垣根を越えてもたらされ、告げ知らされたとのメッセージへとつながります。

 しかしあくまでも「傍流」からの知らせにより自らの立つ瀬を脅かされるのがローマ帝国の後ろ盾のもとエルサレムの王宮に座していたヘロデ王でした。傍流に立つ、しかも異邦の民から発せられたその問いかけとは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその方の星を見たので拝みに来たのです」とあります。ヘロデ王はユダヤ人の王ではないとの含みをもち、直接的であるにせよ、間接的であるにせよ、ローマ帝国による支持をとりつけたヘロデ王の立場を根底から覆す言葉を聞かされたのです。さらに言えば、『旧約聖書』に記される預言者の物語を例にとれば、異邦の民から王の権威を否定されたのと同然です。ヘロデ王にとって考えられる事態とは、これから民心が離れていくだろうとの事態です。これはヘロデ王には何としても避けなくてはならない状況です。「ユダヤ人の王が生まれる」。その時を知ったヘロデ王に、さらに追い打ちをかけるのが「民の祭司長や律法学者」、つまりヘロデ王に直接には仕えるのではない祭司長や律法学者からの知らせです。そこには「時」に次ぐ「場所」が記されています。『ミカ書』5章には「エフラタのベツレヘムよ お前はユダの士族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る」とあります。その言葉を福音書の書き手集団は一部改変して民衆に仕える祭司長や律法学者に語らせます。その場所はベツレヘム。『旧約聖書』では「いと小さき者」とされています。つまりその時代で考えれば箸にも棒にもかからないほどの場所だったはずです。しかしそこにメシアが生まれるとの知らせにより「お前はユダの指導者の中で決していちばん小さな者ではない」と改編がされています。しかしそれは同時に、救い主の誕生による世の秩序の転換がすでに始まっているとの兆しでもあります。民心が次第に離れていく危機感。これはローマ帝国の後ろ盾をも失う恐怖をも示しています。この裏づけによって不安に陥ったヘロデ王は嘘をつきます。それは「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」というフェイクです。実際にヘロデ王はベツレヘムで新しいユダヤ人の王を拝んだのではなく、自らの残虐さを剥き出しにします。「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を一人残らず殺させた」。これは歴史にあって繰り返し起きてきたところの、神とは無縁の権力がもつ残虐さを読み手の視野に示し、このような暴力とは全く異なる力で以て世を治める、全く新しいイスラエルの王であり、メシアの誕生を浮き彫りにしています。それでは暴力とはまったく異なる力とは果たして何だと言うのでしょうか。

 それは「言葉」です。より深く申しあげれば「神が語る言葉」です。『創世記』以来、人は神の言葉によって創造され、いのちを吹き込まれました。そして神は道を示すために誡めを人々に授けました。さらに神は人の嘆きを「聞き」ます。サライの息子イサクとの後継者に選ばれなかったハガルとその息子イシュマエルの悩み、そしてイシュマエルの泣き声を聞いたのはアブラハムの神でした。そして本日の箇所でも占星術の博士のいのちの救ったのは神の言葉であり、物語をさかのぼればマリアとの離縁を思いとどまらせたのも神の言葉でした。さらにはエジプトへの脱出を語りかけたのもまた神の言葉でした。そして今。イエス・キリスト自らが神の言葉としてわたしたちに『聖書』を通して語りかけ、わたしたちの言葉にできない悩みや痛みを聞き届けて新しい道を拓いてくださります。嘘偽りの言葉・フェイクを打ち砕く神の言葉に導かれて、わたしたちは新たな年を、キリストの祝福にあふれて進みましょう。

2025年12月21日日曜日

2025年12月24日 (水) クリスマスイヴ燭火礼拝

ークリスマスイヴ燭火礼拝ー

時間:午後6時30分~

 
礼拝当日、午後6時30分より
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2025年12月20日土曜日

2025年 12月21日(日) 礼拝 説教

  ―待降節第4主日礼拝―

―クリスマス礼拝― 

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「マリアの観た世界とは」
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』1 章46~56 節
(新約101 頁)

讃美= 21-260,21-265,21-261,
讃美ファイル3「主の食卓を囲み」,21-29.
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【説教要旨】
   56年前のアドベントにいのちを授かった者が、56年後のアドベントに突如肉親を天に見送る。そのような一週間を経て今朝の箇所を開きますと、そのようないのちの道筋が幾重にも重なるばかりか、その生と死のコントラストが今日よりもより太くより鮮やかであった時代に、娘マリアは天使ガブリエルより突然の祝福を授かります。「おめでとう、恵まれた方、主があなたとともにおられる」。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身籠もって男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい」。マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と戸惑いながらも対話の終わりには「わたしは主のはしためです。お言葉通りになりますように」と受け入れます。この場面は今日では解明されたつもりになり、解明されるだろうとの憶測が溢れるにも拘わらず、主なる神からヘブライ語では「ネフェシュ」と呼ばれた「いのちの息」のもたらす処女降誕の物語が示す奇跡をはっきりと示しています。ただその一方で、この時代の妊娠と出産という出来事が、文字通り女性にはいのちを賭するわざでもあり、なおかつ生まれ出ずるところのいのちもまた、世に授けられたその時から生死の狭間を行かねばならなかったところを考えますと、この「お言葉通りになりますように」との応答が、いかに静かに語られようとも、常人には狂気じみており、マリアのただならぬ覚悟と決意を示しているようにも思えます。マリアはいずれこのいのちを、産婆の支えもなく世に押し出してまいります。その覚悟とともに献げられた歌が本日の箇所となります。

  「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目をとめてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者というでしょう。力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の高い者を高く上げ、飢えた人を善い物で観たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに」。

  まさしくこの歌は、イエス・キリストの誕生の果実としてもたらされた世の大転換を物語っています。なぜならこの讃美とは真逆の世界こそ、マリアがみどり児イエスを授かった世のそのもののあり方であり、今もなお続く社会のしくみそのものでもあるからです。確かに人々がこの讃美に立ち返る毎に、世の人々は社会のしくみ、世のありようを見つめ直し、その大変革を主の祝福に応えるなかで繰り返し実現しようと目指す運動を想い起こします。しかし、その出来事が起きるにいたるまでキリストとならぶ塗炭の苦しみをマリアは幾度も味わい続けなくてはなりません。成長した息子イエスは方々でメシアと呼ばれ讃えられます。一方「気が変になった者」と呼ばれるのみならず様々な憎悪の標的にもなります。福音書の世界ではかつての村社会がそうであったように、個人と家族との関係が未分化であり、マリアはイエスの母というその理由だけで様々な嫌がらせを受けたことでしょう。本来ならばその大きな憎しみは世を新たにするためにこそ働くべき原動力となるべきでしたが、その実は少数者や弱者叩きへの情念と化し、その果てには、わが子との逆縁、しかもわが子があまりにも言われなき罪状で極刑に処せられるとの悶え苦しみが待ち受けていました。十字架刑に処せられる人の子イエスの苦しみは、母マリア自らの苦しみでもありました。それは産みの苦しみとは異質の、マリア自らもまた暗闇に投げ込まれるところの、死後の世界ではなく世にある地獄とも呼ぶべき、全く希望のない苦しみでした。

  然るにマリアは、あまりにも無残に殺害されたわが息子が葬られた墓へと、その亡骸を清めるために墓地へと赴いてまいります。母親が味わう残酷さのその頂点でマリアが知らされたのは「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」との輝く衣を着た二人からの言葉でした。わたしたちがイエス・キリストの誕生を祝うとき、死に対するいのちの勝利を祝うとともに、復活のイエス・キリストの姿を飼葉桶のみどり児に重ねます。『ルカによる福音書』に記されたイエスの母マリアの讃美。それはわたしたちが一年に一度は必ず立ち戻る、教会の交わりの原点であり、世界の人々に向けられた喜びの報せの原点です。その出発点で、わたしたちは新しいいのちの喜び、新たにされたいのちのステージを喜び祝うのです。

2025年12月12日金曜日

2025年 12月14日(日) 礼拝 説教

   ―待降節第3主日礼拝―

―アドベント第3主日礼拝― 

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「主イエス・キリストの福音を待ち望む」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』1章1~8節
(新約61頁)

讃美=95. 21‐268(97).21‐29.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
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【説教要旨】
町の趣が次第にクリスマスに染まる中、わたしたちは今一度『新約聖書』が『旧約聖書』とは区別はされるが決して分離できない間柄にある事実を確認します。なるほどホテルでは単体で『新約聖書』が置かれているところもあります。しかしだからと言って『新約聖書』だけを読めばそれでよいとは申しません。あくまでも『旧約聖書』に記された神の愛のわざがイスラエルの民を超えて、習慣も習俗も言葉もすべて異なる民に向けてイエス・キリストに結晶したとの理解に立たなくては、ともすれば『新約聖書』だけを味わっておりますとただの通俗道徳と何ら変わらない理解、つまり世の中の常識を打ち破る神の愛を十全に受けとめるのは困難かと存じます。
 人の子イエスはユダヤ人でした。弟子も同じでした。そしてその教えを民の垣根を越えて広めた使徒パウロもまたもとはと言えばファリサイ派の律法学者でした。そのような具合ですので『新約聖書』が綺麗事に聞こえる人がおりましたら『旧約聖書』をお読みくださいとわたしたちは是非お勧めしたいところです。
 そのような事情を踏まえてわたしはさる人から不思議な言葉を聴きました。それは「わたしは神を信じないが『聖書』を一文字たりとも疑わず信じる」との言葉です。いったいどういうことなのだろうかと長年にわたって考えていたのですが、先日顔を洗っているときに「そうか」と思い至りました。それはわたしたちが通常「神」と口にしている言葉とは、これは日本語のもつ限界でしょうか、「カミガミ」「シモジモ」という人の手に十分に手の届く言葉で理解される言葉に過ぎないとよく分かります。『聖書』に記される神とは根本的に異なります。『聖書』なき神はアブラハムの神ではありません。だから「天皇はカミだ」との声を誤解したところにかつての悲劇がありました。
 洗礼者ヨハネが人々に呼びかけたのは、まさしく『イザヤ書』に記された神でした。それは『旧約聖書』に通底するところの、アブラハムの神・イサクの神・ヤコブの神でした。アブラハムの神は時に天地創造の神として描かれ、そして虐げられた人々の悩みを聴き、エジプトで苦しむ奴隷を解放する神であり、約束を破り続ける罪人を救うべく誰よりも率先され行動する神でした。洗礼者ヨハネは、その時代のローマ帝国の支配のもとで、歪められた神の名を、今一度人々のやり直しを通して伝えようとした人物でした。この役目を担う人々を『旧約聖書』で預言者と呼びます。
 本来は割礼という仕方で男性が神との約束を刻むはずのイスラエルの民に、水による洗礼という性別を超えた関わりの確認という道筋をつけました。後の教会の洗礼と違うところは、この洗礼がイスラエルの民の悔い改めに絞り込まれていたところですが、それでも洗礼者ヨハネのもとに群衆は集い、神の前での生き方のやり直し、すなわち悔い改めに希望を見出そうとしていました。洗礼者ヨハネが身にまとっていたもの、口にしていたものはすべて人の手が介在しない、人がお金でもって品物をやりとりするはるか前から養いとして授かっていたものばかりでした。こうしてイスラエルの男女問わず、等しく救いの約束が呼びかけられましたが、それでも洗礼者ヨハネは自らの至らなさを知っていました。洗礼者ヨハネの叫びはイスラエルの民のみに向けられ、また「悔い改めなければあなたがたは滅びる」との裁きを強調するほか無いのです。だからこそ洗礼者ヨハネは語ります。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けるが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」。つまり、水による洗礼とは一過性のものでしかありませんが、今働く神の愛の力である聖霊によって生き方を変えられた者には、必ずそのあゆみに喜びが伴うと、洗礼者ヨハネはその人物が朧気ながら確信していたのです。
 アドベントも三週目を数えます。わたしたちの身の回りには今なお様々なカミガミが満ちています。それは日本神話や物語として描かれる神々と言うより、人の可能性を阻んだり、人の不安を煽ったり、組織のなかで弱さを抱えた人々をはじき出そうとする情念です。神の愛とはそのような情念とは根本的に異なります。だからわたしはハッピーホリデイという挨拶よりは、メリークリスマスという挨拶に強く惹かれます。それは寒さに佇む人々の希望のともしびとなり、貧しさに喘ぐ人々への支援を上から目線のものではなく当たり前のものとし、すべての人々が弱さを恥とせず、他者を蹴落とす争いから解き放たれ、慈しみ続けるというイエス・キリストの福音を十全に証ししているからです。メリークリスマス。神を畏れぬ権力者にはその挨拶は不安をもたらしますが、家畜小屋で赤ん坊を産み落とすほか無かった貧しい夫婦にはまさしく喜びの報せとして響きました。イエス・キリストの喜びを待ち望む。それはすべての愛と平和をつつんで余りある、希望に満ちた『聖書』の核となる神の呼び声なのです。