2026年1月23日金曜日

2026年 1月25日(日) 説教

    ―降誕節第5主日礼拝―


時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
 
説教=「神の救いの兆し」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』1 章21~28 節
(新約62頁)

讃美=  21-530(316).21-463(494).21-24.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 学生のころ、京都市営地下鉄今出川駅改札にいつも貼ってある一枚のチラシがありました。それは脳性麻痺の方で自立した暮らしを求めている方の支援を内容としていました。よく観ると介護のローテーションが記されており、内容も現在であれば高度なスキルを求められていたように思います。

 東日本大震災や新型コロナ禍の後の慢性的な経済不況の中で高度経済成長期やバブル期を懐かしむ雰囲気が包まれ「あのころは自由だった」「あのころは一億総中流だった」というような雰囲気と対になって「しかし今は経済格差の中で苦しむ人がいる」という主張がなされがちですが、実のところよく考えますと、高度経済成長期もまた今と変わらず、いや今以上に辛酸を舐めた人々がいた事実をわたしたちは忘れそうになります。「森永ヒ素ミルク事件」はその典型で、1955年6月頃、西日本一帯で乳児に発熱や嘔吐、肝臓の腫れなど原因不明の症状が相次ぎました。二ヶ月後に岡山大学医学部での調査の結果、原因がヒ素中毒だと判明、工場で製造された「森永ドライミルク」を使った乳児の被害者は12,131人、実に130人が犠牲になり、今も後遺症に悩まされている方々がいます。冒頭の支援を求めていた方もそうであり、報道番組で被害に遭われた方は「ぼくの68年は何だったのか」と言葉もキレギレに訴えます。必ずしも栄養事情がよくなかった時代せっかく授かったこどもに一流ブランドのミルクをあげたのに、結果として毒を盛ってしまったと自らを責め続ける90代の母親、他方で後遺症と格闘しながら訪問介護員の方と結ばれ子や孫に恵まれた方々もおられます。とくに被害者が高齢化した今では、瀬戸内海を臨む「被害者の家」に集い、同じ仲間と気持ちを分かちあうのが何よりの宝であると仰せでした。
本日の聖書箇所では、安息日に会堂に入って教え始められた人の子イエスの姿が描かれます。しかしこの会堂には不思議なことに「悪霊にとりつかれていた」とされる男性がおり、「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と叫びます。同じ福音書の5章でガリラヤ湖の対岸にある「墓場につながれた悪霊つきの男性」の物語と似てはおりますが、お話の特徴は場所が誰からも疎外された場所であると、はっきり分かる墓場であるのとは異なり、本日の箇所ではその場所が会堂であるというところです。言うまでなく会堂とは古代ユダヤ教の文化圏では暮らしの軸となります。ユダヤ教の世界で礼拝が執り行われるのはエルサレムの神殿ばかりではなく、このような会堂で律法学者が教えを広める以上、その場には地方共同体に属する様々な人々が集うところとなります。そのただなかで、この悪霊にとりつかれた人は「かまわないでくれ」と叫びます。本来はこのような発言をしなければ、ことさら人の子イエスはこの男性に注目はしません。その切なる願いが「かまわないでくれ」。無関心ではなく、目を逸らして欲しいという叫び。ここでイエス・キリストとこの男性との関わりが鮮やかになり、癒しの物語が『マルコによる福音書』で初めて記されます。いわばその共同体で隠そうとしていた弱さを通して、カファルナウムの小さな村に隠されたところの、苦しむだけではなく人々からまともに向きあわれることのなかったその人の尊厳が回復していく様子が描かれてまいります。神の救いの兆しと言わずして何と呼びましょうか。

 わたしたちは常に絶えずその時代の先入観に囚われているのだという事実を絶えず自覚しなくてはなりません。会堂にいるから集う人々はみな笑顔で健やかだ、いわば「健全だ」との思いは、わたしたちの願いに過ぎません。むしろ事実を冷静に見つめれば、様々な痛みをそこかしこに見つけます。ときにはその痛みの由来が自らのあり方に由来する場合もあるかもしれません。右肩上がりの経済成長期の中で公害があり、食品会社が起こした事件があり、その後遺症に苦しむ方々には今なおスポットライトがなかなか当たらないという現実があります。ともすればわたしたちは、どなたかを覚えて祈り、支えるわざには喜んで加わっても、祈られ、支えられるというその逆に立つ立場に感謝しているのかという問いも浮かびます。わたしたちが重んじるべきは、どのような場所にあっても、必ずその心に痛みや悲しみを負っている人がおられ、救いを授かる側に立って物事を想像する態度です。双方向の交わりが要です。

 イエス・キリストは自ら不条理な苦しみを受ける十字架にいたる道を歩まれました。それはイエス・キリストがただ単にわたしたちを一方的に救うという高みに立ってのわざではありません。わたしたちの苦しみをともに担う姿勢を最後まで貫かれたからこそ完成された救い主の癒しでした。イエス・キリストもまた「頭がおかしくなっている」今風にいえば「最強の悪霊を用いて、人々にとりついた悪霊を追い出している」との言いがかりをお受けになります。

 イエス・キリストへの服従を誓ったこの一月。神の言葉に刻まれた道をたどり、祈られる立場を喜びとしましょう。

2026年1月14日水曜日

2026年 1月18日(日) 説教

  ―降誕節第4主日礼拝―


時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
 
説教=「湖のほとりで」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』1 章14~20節
(新約61頁)

讃美=  21-504(285).21-518(361).21-24.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
   各地で相次ぐ地震。南海トラフ地震の兆しを見る人もいれば、大阪市内の上町断層に阪神・淡路の震災の深い傷を重ねる人もいます。自然災害はいのちを一瞬にして奪いますが、それに劣らぬ危機と格闘しながら生きる人々がいました。それは日々湖に網を投げて暮らす漁師。人の子イエス最初の弟子の生業はそこにありました。人の子イエスとの出会いの姿を描く物語として知られるのが『ルカによる福音書』。物語にはさまざまな伏線が張られており、その伏線をたどるとイエス・キリストの受難の折の弟子の態度が分かる仕組みになっています。本日の『聖書』箇所はそのような技巧よりも人の子イエスに従った人々の姿に注目が向けられるよう実にシンプルな筋立てとなっています。

 人の子イエスの呼びかけに応じた者、則ち最初期の弟子の名があげられます。「シモンとシモンの兄弟アンデレ」。このシモンは後にペトロとも呼ばれます。そして漁師を生業としておりました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。そして続く道なりで「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ」が招かれます。その四人はそれぞれ二人が兄弟でありかつ同じ湖を暮らしの場としてともにしています。ゼベダイの子ヤコブとヨハネは父を雇い人とともに残して人の子イエスに従っていきます。土地や家族の繋がりを人の子イエスは否定しません。しかし地域では重要であったその繋がりを一度は神に委ねて新たに歩むには人としての大きな決断が要ったことでしょう。

 しかしこの最初の弟子はイエスに従う中でまず何を見聞きし何を経験したというのでしょうか。それは自ら決断にいたった様々な思いがことごとく打ち砕かれるという痛みでした。そしてその痛みは湖に漕ぎ出す日常をはるかに凌ぐ痛みであったとともに、自らの浅はかさを突きつけられる日々ではなかったかと推し量ります。

 とは申せこの弟子たちはそのような痛みを覚えながら、叩かれながらもイエス・キリストとの関わりを否定できませんでした。ファリサイ派のような『聖書』の知識もなくこの弟子たちは、学者でも教師でもなく、日々の厳しい暮らしを営むほかなかった生活者でした。もし人の子イエスとの出会いがなければ、恐らくは今日まで語り継がれはしなかった人々でしょう。その意味ではもっともわたしたちが自らを重ねやすい人物ではあります。だからこそ、最初の弟子は救い主を前にして実に人間臭い姿を恥も外聞も無くさらけ出してまいります。

 その最たる人物がシモン。本日の『聖書』箇所よりもさらに早く文書を記し、しかも弟子と同時期に働いた使徒にパウロがおります。元来パウロは徹底した律法学者であり、その手紙でも教会を迫害していた事実を否定しない一面ももちます。この強烈な個性のぶつかり合いが『ガラテヤの信徒への手紙』に記されます。この手紙は『聖書』に納められる中でも数少なく、パウロ自らが記した文書とほぼ断定されます。この手紙でパウロはシモンを非難します。シモンがパウロとともに歩む教会を訪ね、当初はパウロの教会に集う人々、すなわち古代のユダヤ教徒も諸国の民もともに食卓を囲む集いに加わっていました。しかしエルサレムからその時代のユダヤ教への徹底さを教会に求める人々、すなわち諸国の民とは教会での食事の同席を禁じる人々が調査をしに来るやいなや、シモンは諸国の民との交わりを絶とうと尻込みをした結果、パウロと交わりを深め、ともに働いた使徒もまた巻きこまれてしまいます。その結果、パウロの導く教会は深手を負います。シモンの態度に怒り心頭のパウロは「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦の民のように暮らしているのに、どうしてこの人々にユダヤ人のような暮らしを強いるのか」と衆目を前にして叱りつけます。まことに神の愛の激しい炎とも呼ぶべきパウロの姿勢であり「イエスの焼き印を身に受けた」と語る使徒らしいと申せます。事実パウロの手紙によって目覚めた人々には有名無名を問わずイエス・キリストの福音を徹底させようとした人々の姿が瞼に浮かんでまいります。

 しかし他方でシモンは、この手紙のはるか後に記された『マタイによる福音書』16章では「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ、わたしはこの岩にわたしの教会を建てる」と人の子イエスから呼ばれます。つまりこの一見すると実に不徹底に見えるペトロは決してイエス・キリストから否定されません。むしろ復活したキリストとの出会いを通して弱さを抱えた人々もまたイエス・キリストに導く橋として用いられます。使徒パウロの文書が大黒柱であるならば、ペトロはその大黒柱を軸として人々の憩う舞台を岩盤に幾層にも幾層にも重ねてまいります。仮に大地震がきたとします。揺れ動くいのちを支え、傷つき召された人々も憩う天から降り、地を貫く芯張り棒はイエス・キリスト。そこに「大丈夫だ、安心なさい」との声響き、弱さある故に集う多彩な人々。連綿と続く教会の歩みが始まります。 

2026年1月9日金曜日

2026年 1月11日(日) 説教

―降誕節第3主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
説教=「天が裂けるとき」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』1 章9~11節
(新約61頁)

讃美=  21-529(333).461.21-24.

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【説教要旨】
 飲み物の話と申しますと教会の礼拝には相応しくないかも知れませんが、『聖書』には果実としての「ぶどう」がふんだんに用いられます。そしてもちろんその実りを発酵させたぶどう酒、則ちワインをめぐる譬えも用いられます。有名なところでは「新しいぶどう酒の譬え」。最も初期に成立した『マルコによる福音書』にも次のように記されます。2章22節には「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は新しい革袋にいれるものだ」との言葉です。これは人の子イエスが断食を続けるヨハネの弟子、そして一部のファリサイ派を批判しての言葉ですが、ぶどう酒へと発酵する過程で泡立つぶどう汁の話はさておき、この箇所で注目すべきは「新しいぶどう酒」が「古い革袋」を破るのは常識として当然だとする前提です。何につけても新しいものは保守的なあり方を突き詰めるにしても外部からこじ開けるにしても旧来の頑なさを破って広がっていくという理解が描かれています。

 それは『旧約聖書』『創世記』に描かれる「洪水物語」にも重なるところがあります。大洪水が引き起こされる際の描写は次のようになります。「ノアの生涯の第六百年、第二の月の十七日、この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた。雨は四十日四十夜地上に降り注いだ」(『創世記』7章11節)。この箇所では大規模な自然災害とは、犯した罪に無自覚な人々を滅ぼすためであるとの古代社会特有の意味づけがされております。しかし逆の見方をすれば、このように「ことごとく裂ける」という表現は、実はこの災害が罪人にあふれた世界を新たにし直し、箱舟にいるノアやセム、ハム、ヤフェトほかその家族、多くの生き物が神の恵みのもと、新たに生き直す世へと造り変えるという世界の途方もない変容をも示しています。人の目にはその場その場の局地的な状況しか目に入りません。ですからこれからどうなるかは見通しかねるところがありますが、神の備え給う時とは自然災害でさえもそのような遠大な計画のなか、地上への審判の物語から赦しへの物語へと話そのものの意味づけを転換させてしまいます。

 それでは本日の、イエスがバプテスマのヨハネから水による洗礼を授けられた場面はどのように描写されるのでしょうか。それは「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて『霊』が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」とあります。この箇所では別段「天が裂ける」という言葉を用いなくても人の子イエスの変容は分かるというものです。それではなぜ「天が裂ける」という言葉が付加されたのでしょうか。参考までに『マタイによる福音書』も『ルカによる福音書』にも「天が開く」とは記されても「裂ける」とは記されません。『マルコによる福音書』ほどの強烈なインパクトある出来事としては記されてはいないのです。

 人の子イエスがバプテスマのヨハネから水による清めの洗礼を授かるとの出来事は、とりもなおさず人の世がそのような清めを必要としている神の愛を忘れた世界であり、イエスもまたその神の愛を忘れた者とともに歩む救い主であるとの強い示しです。その驚くべき、本来であればあり得ないはずの圧倒的な神の愛の示しが何よりも「天が裂ける」との言葉には込められています。みどり子は母親の胎を破って生まれてまいりますが、今でもその時を正確に推し量ることはできません。大地にまかれた種もまた、種の殻を破って新たな芽が出てまいりますが、その時間を正確に推し量ることはできません。イエス・キリストを道としてこそ、神の愛の力であるその霊はわたしたちに豊かに注がれるのです。それはイエス・キリストが十字架で死を迎える際にエルサレムの神殿の幕が真二つに裂けるとの描写によってより鮮やかにいのちの満ちあふれが記されます。わたしたちには人の子イエスの死としか映り得ない出来事が、いのちの復活への舞台へと移る兆しです。キリストの苦難が、世の眼差しを復活の出来事へと堅く結びます。

 本日は二十歳の祝福式を礼拝で執り行います。祝福を授かるのは西村咲恵子さんです。常々この咲恵子さんのお名前にはため息が出るほどの感銘を覚えます。つぼみはその皮を裂いて、恵みの花は咲いてまいります。わたしたちはそのような出会いによって多くを学び、多くを胸に刻み、多くの謙虚さを授けられてきました。神の愛が天を裂き、鳩のように人の子イエスを包んだ出来事から始まる多くの問いかけを、わたしたちは祈りを重ねるごとに授かり続けました。『ルカによる福音書』では人の子イエスと洗礼者ヨハネとの出会いの物語の序章として、エルサレムの神殿で語られた少年イエスの言葉はマリアとヨセフには「分からなかった」とあります。神の愛の新しさとはわたしたちには直ちには理解できません。それは人の素朴な思いを引き裂きます。しかしこの「分からなさ」を尊びながら、わたしたちは神の前での自己吟味に導かれ、教会は交わりに連なる方を受け容れる「新しい革袋」となると確信します。

2025年12月28日日曜日

2026年 1月4日(日) 説教

 ―降誕節第2主日礼拝―


時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
 
説教=「神に育まれる少年イエス」
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』2 章41~52 節
(新約104 頁)

讃美= 21-257.21-412.21-29.

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動画は2種類
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【説教要旨】
 クリスマス物語では飼葉桶のみどり児イエスが誕生するまでの物語、つまり救い主の誕生にいたるまでの道筋を描きます。人の子イエスの誕生という劇的な出来事とは裏腹に、この物語を細かく描いている福音書とは『マタイによる福音書』もさることながら『ルカによる福音書』がその巧みさにあっては一歩突っ込んでいるように思えます。なぜならば、みどり児イエスが成長し、その後そのような経緯をたどって洗礼者ヨハネのもとで救い主としてのあゆみを始めるまでの成長物語が記されています。そのなかでもまことに興味深いのは本日の箇所の物語です。

 ローマ・カトリック教会や東方オーソドックス教会では権威ある「聖家族」として描かれる母マリア・父ヨセフですが、本日の箇所では思いもよらない息子の成長に戸惑う両親の姿が実に写実的に描かれます。貧しいながらも家族は毎年過越祭を祝うためにエルサレムへ旅を繰り返します。おそらくその負担も決して軽くはなかったと思われますが、それでも両親の背中を通してその生きざまはまことに質素な出で立ちながらも伝わるところはあったでしょう。

 ところで本日の箇所では人の子イエスの12歳を迎えた過越の祭の旅路が描かれます。今の時代の12歳と『新約聖書』の時代の12歳では時の密度が異なり、おそらく現在の少年よりは成熟していたのではないでしょうか。両親もおそらくはこの旅が家族最後の旅路であろうと考えたかも知れません。しかし事件は祭の期間が終ってから起きます。「少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった」その記事。マリアとヨセフはあろうことか息子イエスをエルサレムに置いてきてしまいました。単にマリアとヨセフがイエスを置き去りにしたとは考えられません。おそらくはそれまでの旅のパターンでは少年イエスもまた両親についてきたことでしょうが、この年になって両親が予想もしなかった行動に少年イエスは出てまいります。マリアとヨセフは一日そのままイエスがついてくるものだと思い込み、そのままナザレへと道を進んでしまいました。けれども振り返るとそこに息子の姿はありません。そのような具合ですから慌てふためきながら旅を同じくしていた親類や知人の間を捜し回りますが、そこにもおりません。それでは少年イエスは何をしていたのでしょうか。

 それはエルサレムの神殿に留まり、律法学者たちの真ん中で、その時代のユダヤ教の聖書をめぐる対話に熱中していたのです。言葉のやりとりは決して洗練されてはいなかっただろうとはいえ、その指摘に並み居る律法学者たちも目を輝かせて対話を楽しんでいたのではないでしょうか。それではこの三日間、少年イエスはどこで何をしていたのかといえば、その言葉のやりとりに惹かれた律法学者のところで寝食を整えられていたとも言えるでしょう。明らかに少年イエスは両親の保護から自立し始めました。

 この無届けの外泊に母親は当然ながら「なぜこんなことをしてくれたのですか。ご覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」と叱りつけます。しかし興奮した母の言葉に少年イエスは「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。この答えに「両親はイエスの言葉の意味が分からなかった」と福音書の書き手は記します。この箇所で明らかに少年イエスは両親の手から離れ、将来の救い主としての片鱗を見せ始めました。この謎の言葉の後に、少年イエスはともにナザレへと戻り、両親に仕えて暮らしたとあります。マリアとヨセフもまた、息子の自立には首を傾げること多々あったとの物語です。

 この物語を通して、わたしたちは未来を拓く次の世代の若者たちの言動に戸惑うように、いわゆる「聖家族」も首を傾げていたその態度に自らを重ねます。しかしその理解できない立ち振る舞いが、洗礼者ヨハネのもとで始まる救い主としての歩みに繋がってまいります。

 「最近の若い者は」という言葉。これはみなさまもご存じのように、古代エジプトの遺跡の落書きからも、古代メソポタミアの粘土板からも見つけられています。その気持ちは確かによく分かるところではありますが権威ある「聖家族」像とわたしたちの異なるところがあるとすれば、それでもなおマリアとヨセフは息子のイエスを信頼し続けたところに重なるところがあります。たとえ息子が周囲の評判としてユダヤ教の文化圏での「メシア」と呼ばれようとも、逆に「頭がおかしくなった」と囁かれようとも、幾つになってもこどもを信頼しない親はおりません。育児に必死になっている両親の姿を決して侮ることなく、むしろ救い主の成長物語の一幕に加えているところが、わたしたちの胸にも染み入るところです。巷でどのような言葉が溢れようとも、聖家族が息子を信頼したように、次の世代の背中を押してまいりましょう。人の子は神の愛に育まれて成長します。神の愛の光をわたしたちは映し出すのです。

2025年12月26日金曜日

2026年 1月1日(木祝) 元旦礼拝 説教

―2026年元旦礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 
 


説教=「委ねる道を備える神」
稲山聖修牧師

聖書=『出エジプト記』12 章43 ~51 節
(新共同訳 旧約113頁) 

讃美= 21-227,21-471,21-24.
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 太陽暦かつ共通紀元(西暦)では2026年を迎えました。1月6日まではクリスマスですので、仮にみなさまのお家にクリスマスツリーが飾ってあったとしても教会から観ればおかしいところはありません。ただし東アジアには新たな年を大いにお祝いするという習慣があります。日本や韓国では西暦の元旦が特別な意味をもちますし、中国では旧暦の正月が重んじられ日本にも多くの観光客がお見えになります。欧米に比較いたしますと東アジアの場合、近代化の時期が遅れておりますので、それぞれの国の歴史に根ざすところの礼儀作法が時にお互いの交流を勧めもすれば妨げもします。生活習慣の違いに基づく摩擦がお互いの国々の友情を妨げないようにと祈るところです。

 さて2026年の元日の礼拝で開きますのが『出エジプト記』12章43~51節、ユダヤ教徒にはわたしたちには正月以上の意味をもつ「過越の祭」の規定に関する文章です。なぜこの『出エジプト記』を開いたかと申しますと、人の子としてはユダヤ教を背景にして育ったイエス・キリストもまたこの記載を重んじ、弟子たちだけでなく直接には人の子イエスとの出会いを経なかった使徒パウロもまた当然のように重んじたという点で、元旦礼拝に相応しいと考えたからです。もちろんこの過越の祭はわたしたちにとりましてはイエス・キリストを通した神の愛によって、記された様々な制約が廃されまして、すべての民へと罪からの解放、歴史や構造に基づく束縛からの解放が声高くうたわれます。ただし「解放の物語」と申しましてもわたしたちには今ひとつピンと来ないようにも思われるのではないでしょうか。

 『出エジプト記』はアブラハムの神による奴隷解放の物語として知られておりますけれども、よくよく考えるとわたしたちはこの「解放」という言葉を「潔よし」とはしない習わしや文化に縛られています。生徒は学校や受験に縛られ、農家は土地に縛られ、会社員は企業に縛られ、公務員は国や地方自治体に縛られると申します。そのような日々を過ごす中で、働く場所での仕事を尊いものであるどころか神聖化し、それにすがるという性癖をわたしたちは持っています。仮に合理的ではなかろうともそのような組織の習慣や掟について行けない人々は仲間はずれにされる、または「常ならぬ者」として「異常者」として「個性的」の言葉の裏で扱われます。

 しかしイスラエルの民はわたしたちのこのような倣いとは正反対の態度をとります。すなわち、人々にとって大切なのはアブラハムの神の祝福のうちに開かれた道を、信頼に満ちてあゆむことであって、何が何でも一箇所に留まり続けるという態度ではありません。これをイエス・キリストとの関わりのなかで受け取り直すのであれば、まさしくキリストを信頼して、キリストに委ねて祝福された道を行くという理解へと繋がります。そう言えば、飼葉桶のイエスに黄金・乳香・没薬を献げた三人の博士たちも、夢で聞いた「ヘロデのところへ帰るな」との言葉に導かれて、別の道を通って各々の祖国へ帰っていきました。

 今年の干支は馬とされています。家畜化された馬は『聖書』では専ら軍事用に用いられるばかりですが、北米大陸に住む、実際の野生の馬は絶えず居場所を変えてまいります。アフリカのシマウマもまた同じです。同じ神の被造物であるのにも拘わらず、動物に赦されて人間には赦されない態度といえば「逃げる」という姿勢です。とりわけ捕食される側の動物には「逃げ足が速い」とはその特徴だけで捕食者に対する決定的な武器とさえなります。「逃げるは恥だが役に立つ」とはドラマにもありましたが、もともとはハンガリーの諺だとされます。

 『出エジプト記』の過越の祭の規定に記された諸々の規定にある制限をイエス・キリストが自らの内に取り込んでくださり、本来の神の愛に基づくわざである解放の視点に立ちますと、縛られた一方向に基づく考えからも自由にされます。『ヨハネによる福音書』8章32節には「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」とのイエス・キリストの言葉が刻まれます。この新しい年、わたしたちがイエス・キリストにあって逃れの道を見出すのであれば、それは単なる「逃避」に繋がる惨めな道ではなくて、主なる神が示すところの約束の地へと続く道となるに違いありません。立ちはだかる岩があれば、その岩を砕こうと留まるのも道かも知れませんが、急がば回れとばかりに迂回するという道もあります。奴隷解放の神に解き放たれた60万人とも言われるイスラエルの民は、多くの躓きを覚えながらも、二世代を経て「乳と蜜あふれる約束の土地」へと到達します。わたしたちの主イエス・キリストに祝福された2026年の年末の喜びは、すでにこの元旦から始まっています。

2025年 12月28日(日) 礼拝 説教

―降誕節第1主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 
 


説教=「いのちの御言葉われらを見捨てず」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』2 章1~12 節
(新約2頁)

讃美= 21-255,501,21-29.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
   2025年も最後の聖日礼拝を迎えました。教会は1月6日までクリスマスを示します。救い主がお生まれになるという知らせを耳にした人々は世の秩序の大転換を予期し、これからどうなるのかと脅える人々もおりました。『マタイによる福音書』ではイエスの誕生を大いに祝福する人々と、不安を覚える人々の姿の違いを鮮やかに描きます。

 本日の箇所ではまず占星術の博士が描かれます。この人々は星の光の動きから世の政の行く末を解き明かす学者と説明すると分かりやすくなりますが、みなさまはこの説明に不自然さを感じはしないでしょうか。実は古代ユダヤ教の誡めによれば「占星術」とはイスラエルの民には固く禁じられていたはずではないか、との問いかけです。確かにユダヤ教では概して神との絶対的な関わりが軸となり、占いは決して奨励されません。しかし事情によれば世の民の行く末を解明する手立てとして受け入れられる場合もあったと申します。そのように考えますと、イエス・キリストの誕生を『旧約聖書』の預言の成就として見なすこの福音書では、占星術の博士による祝福は実に驚くべき出来事であるばかりか、本来なら片隅へと追いやられていた異邦人が救い主の誕生を祝いにきたとの描写により、イエス・キリストの誕生の祝福が古代ユダヤ教の垣根を越えてもたらされ、告げ知らされたとのメッセージへとつながります。

 しかしあくまでも「傍流」からの知らせにより自らの立つ瀬を脅かされるのがローマ帝国の後ろ盾のもとエルサレムの王宮に座していたヘロデ王でした。傍流に立つ、しかも異邦の民から発せられたその問いかけとは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその方の星を見たので拝みに来たのです」とあります。ヘロデ王はユダヤ人の王ではないとの含みをもち、直接的であるにせよ、間接的であるにせよ、ローマ帝国による支持をとりつけたヘロデ王の立場を根底から覆す言葉を聞かされたのです。さらに言えば、『旧約聖書』に記される預言者の物語を例にとれば、異邦の民から王の権威を否定されたのと同然です。ヘロデ王にとって考えられる事態とは、これから民心が離れていくだろうとの事態です。これはヘロデ王には何としても避けなくてはならない状況です。「ユダヤ人の王が生まれる」。その時を知ったヘロデ王に、さらに追い打ちをかけるのが「民の祭司長や律法学者」、つまりヘロデ王に直接には仕えるのではない祭司長や律法学者からの知らせです。そこには「時」に次ぐ「場所」が記されています。『ミカ書』5章には「エフラタのベツレヘムよ お前はユダの士族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る」とあります。その言葉を福音書の書き手集団は一部改変して民衆に仕える祭司長や律法学者に語らせます。その場所はベツレヘム。『旧約聖書』では「いと小さき者」とされています。つまりその時代で考えれば箸にも棒にもかからないほどの場所だったはずです。しかしそこにメシアが生まれるとの知らせにより「お前はユダの指導者の中で決していちばん小さな者ではない」と改編がされています。しかしそれは同時に、救い主の誕生による世の秩序の転換がすでに始まっているとの兆しでもあります。民心が次第に離れていく危機感。これはローマ帝国の後ろ盾をも失う恐怖をも示しています。この裏づけによって不安に陥ったヘロデ王は嘘をつきます。それは「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」というフェイクです。実際にヘロデ王はベツレヘムで新しいユダヤ人の王を拝んだのではなく、自らの残虐さを剥き出しにします。「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を一人残らず殺させた」。これは歴史にあって繰り返し起きてきたところの、神とは無縁の権力がもつ残虐さを読み手の視野に示し、このような暴力とは全く異なる力で以て世を治める、全く新しいイスラエルの王であり、メシアの誕生を浮き彫りにしています。それでは暴力とはまったく異なる力とは果たして何だと言うのでしょうか。

 それは「言葉」です。より深く申しあげれば「神が語る言葉」です。『創世記』以来、人は神の言葉によって創造され、いのちを吹き込まれました。そして神は道を示すために誡めを人々に授けました。さらに神は人の嘆きを「聞き」ます。サライの息子イサクとの後継者に選ばれなかったハガルとその息子イシュマエルの悩み、そしてイシュマエルの泣き声を聞いたのはアブラハムの神でした。そして本日の箇所でも占星術の博士のいのちの救ったのは神の言葉であり、物語をさかのぼればマリアとの離縁を思いとどまらせたのも神の言葉でした。さらにはエジプトへの脱出を語りかけたのもまた神の言葉でした。そして今。イエス・キリスト自らが神の言葉としてわたしたちに『聖書』を通して語りかけ、わたしたちの言葉にできない悩みや痛みを聞き届けて新しい道を拓いてくださります。嘘偽りの言葉・フェイクを打ち砕く神の言葉に導かれて、わたしたちは新たな年を、キリストの祝福にあふれて進みましょう。

2025年12月21日日曜日

2025年12月24日 (水) クリスマスイヴ燭火礼拝

ークリスマスイヴ燭火礼拝ー

時間:午後6時30分~

 
礼拝当日、午後6時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
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