時間:10時30分~
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
礼拝当日、10時30分より
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日本基督教団泉北ニュータウン教会の聖日礼拝説教要旨を掲載。
ホームページは、 https://kohituji.sakura.ne.jp/
2014年度以前の説教要旨は、こちらからご覧になれます。
時間:10時30分~
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
礼拝当日、10時30分より
先週泉北ニュータウン教会は聖餐式と同時に受洗者を与えられました。ご主人を慕うこころから神さまがわたしたちと長屋淳子さんとを結びつけてくださいました。7月12日のメッセージで私は『賢者』という説教題でお話ししました。自分が愚かになるときに神様の御言葉を自らに語りかけ様々な物事に対する冷静な目をもつこと、悲しみに遭ったとき、主の福音を自らに語りかけて立ち直ろうとすること、このことを大事にするその心構えをわたしは大切にしたいと願っています。「コヘレトの言葉」にも様々な賢者のメッセージを語りかける内容があります。分別の賢さ、抑制する賢さ、降伏出来る賢さ、愛の知恵、歳を重ねてからわかるものやわかることもあります。そこに実は主の大きな「恵み」があるのです。おおきな成功や富ではなく、「いま此処にある」日常の生活をイエス様から神さまから与えられたことを感謝して受け取ることこそが最も「賢者」なのではないか、と聖書は教えていると思います。
今日の説教題、『愚か者』ですが、終末におけるキリストの再来への準備をすべきと言う註解書では「警告」がなされたとされています。中にある譬えの意味はいつ主人(イエス様)が帰って来ても大丈夫なように備えなさい、それはイエス様の再臨に対して目を覚まして備えなさい、ではないでしょうか。その「備え」とは何でしょうか。それは神様から任された務めを果たすこと、任された務め、それは神に従うこと、任された務めを忠実に果たすことが出来る僕は神様から褒められる(祝福される)、逆に自分勝手に振舞う僕は厳しく扱われる、その神に従うことによって祝福される神への忠実ではないでしょうか。そこにわたしは「真摯に生きることの深さ」を覚えました。そこに愚直に生きる愚者(愚か者)のイメージを持ちました。
将来を憂いでしまうより、今示されたことに誠実であるように備えよ、という務めを果たすことです。譬えの中心は主人が帰って来たときに目を覚ましている僕、すなわち終末期の到来又はひとの子が来臨されることの覚悟と準備を怠らない僕です。例えば、ルカ22:25「あなた方の中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」ということに繋がりになります。「ともし火」とは真理や神のことばが私たちを照らす光、として聖書では「ともし火」とは出てきますがその火を灯して待つこと、いつ主が来ても良いように信仰と行いを絶やさずに生きること、そのことに尽きるのではないでしょうか。イエス様の再臨がいつ来るかわからないから常に用意が必要であること、ここまでは全ての人々に対して注意喚起しています。41節からペトロを代表者の共同体の指導者に向けての譬えと一般の人びとへの譬えの区別をして下さい、との質問をイエス様に求めます。
42-44節:この場面での「主人」とは「キリスト」を意味します。管理人はその僕、ここでの「僕」とは教会の指導的な立場を意味します。そしてその教会内での僕たちへの世話ができているかと言う義務についていいます。その義務(此処では時間通りに食事を与えること)を果たせば帰ってきた主人、つまり再来のキリストはその僕に全財産を管理させる、というのです。全財産とは「勤勉な労働と質素な暮らしが宗教的な行為である」とするカルヴァン主義及びピューリタン(清教徒)の考えだと思います。ホーリネスの群れの創始者ジョン・ウェレーの「信仰の結果としての富とは、出来る限り稼ぎ、出来る限り倹約し、出来る限り与えること」と説いたことに同義語です。
45-46節:主人の帰りを待つ譬えが出てきますが、それは自分に課せられた義務をよりよく知っているか、その認識があっても主人の帰りは遅いと思ってた僕、つまりキリストの再臨は遅いとその教会の執事が教会員に勝手に振舞うことは主人(神)から厳しく罰せられるということを譬えています。
47-48節:知っていても従わない者、神に対して勝手な振舞いをした僕を見て見ぬふりをする者もその責任は重い、とされるということです。それでは「主人の思い通りにすること」とは一体何でしょうか。
神の愛を行う、イエス様の思い通りにすることができる実践者となるためにはイエス・キリストのために「愚かな者」になることではないか、と思います。私が尊敬する同窓の樋口和彦先生の書物の中に三つの要素として次のように述べています。
愚者とは「単純」であること、聖なる愚かさであること、「愚かさ」には使命があること、
イエス様の愚かさは「愚かな人びとに仕える愚かさ」、その使命を持っているということです。イエス様は本当に世間から聖別され、罪のある人間のために、という使命のための十字架に架かられました。この「十字架の愛を身に背負う者達がキリスト者である」とわたしは思っています。今回のこの「愚かさ」こそが数値が最優先されるこの現代で本当の「知」になるのではないでしょうか。本当の「真心を持つ人間」であることが出来るのではないでしょうか。自分が出来たと思った瞬間、自分が立派だと思った瞬間、「本当の愚かさ」に落ちて行きます。自分への礼讃ではなく神様への感謝や賛美の言葉が自然と出て来るかどうか、此処に居られる皆さんはおできになるでしょうが、今一度初めに立ち帰って私たちが本当のキリストのための「愚か者」になることを思っては如何でしょうか。
時間:10時30分~
礼拝当日、10時30分より
❶【信仰は行動であること】
男の人たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来ました。しかし群衆に阻まれて中に運び込むことができなかったので、屋根に上って瓦をはがして穴をあけ、病人を床ごとつり降ろしました。イエス様はその人たちの信仰を見て「人よ、あなたの罪は赦された」(ルカ5:20)といわれました。ここには「信仰を見て」と書かれていて、「信仰を聞いて」とは書かれていません。信仰というのはただ言葉だけではなく、行動を伴わなければならないものなのです。ヤコブは「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」(ヤコブ2:17)とも語っています。今では、イエス様は福音書の中に、礼拝の中に隠れておられます。あきらめないで深く読み続ける者、捜し求める者、何度も呼び求める者は、キリストという宝を見つけるでしょう。神様は隠れておられ、人間に捜してもらいたいのです。神が隠れるのは、本当に自分を必要とする者を見つけるためなのです。「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。」(マタイ7:7)
❷【罪の赦しと病の癒し】
この中風の人は、病気を癒してもらうためにやってきました。それなのにイエス様は病気の癒しではなく、まず罪の赦しを宣言なさいました。なぜでしょうか。教会はこの順序を重んじます。病いの癒しよりも、罪の赦しの方が重要だからです。多くの人は教会に「癒し」を求めてやって来ます。しかし教会が提供するのは「救い」なのです。癒しと救いは違います。癒しはこの世的なものであり、一時的なものです。いくら病気が癒されても、再び別の病気になり、最後は癒されずに死にます。癒しには限界があるのです。しかし救いは永遠のものです。イエス様が望まれるのは癒しではなく救いです。地上の一時的な癒しではなく、救いを求めなければなりません。すなわち、神キリストを求めるのです。
❸【病人の癒しは人類の復活のしるしであること】
イエス様が罪を赦す宣言をされたのを聞いて、律法学者は「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったい誰が、罪を赦すことができるだろうか。」(ルカ5:22)と非難しました。そこでイエス様は「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」と言われ、中風の人に「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われると、病人は立ち上がり、神を賛美しながら帰ってゆきました。
皆さんは病気を癒すのと、罪を赦すのとどちらが易しいと思いますか。聖書では「罪が赦される」というのは、神様との関係が回復することを意味しています。病気を癒すことは簡単ですが、罪を赦すこと、つまり神様との関係が回復し、人が信仰者になることはものすごく難しいのです。イエス様に重い皮膚病を癒してもらった10人の人がいましたが、信仰するために戻ってきたのはたった一人だけでした。いくら病気が癒されても人は神を信じません。奇跡では信仰者は生まれないのです。しかしイエス様は、ご自分が罪を赦す権威を持つ者、つまり学者が言った神ご自身であることを教えるために、病気を癒し、信仰者を創造されたのです。
人々が恐れに打たれますが、それは神の栄光を見たからです。神が地上に現れ、人の罪を赦し、死から命に回復させられるのを見た、ということでしょう。天が、神が自分たちの近くにおられたということに対する恐れです。この病人の癒しは、人類の復活のイメージとして行われました。
土合竹次郎(どあい・たけじろう)という牧師さんがこんなことを言っています。「歳をとらないと分らない真理がある。最近になって確信をもったことがある。天国は行く所ではなく、来るものである。主イエスも、『御国が来ますように』と祈れと教えておられる。…死は永久の眠りの永眠ではなく、やがてキリストによって復活するまでのひとときの眠りにつく就眠である。」キリストはあなたと一体になるためにこの世に来ました。キリスト自身が天国です。あなたが天に昇るのではなく、天国の方からあなたの所に来てくれたのです。あなたを神の国に入れるためです。天上で罪が赦されるのを待つことなく、地上にいる時からあなたに罪の赦しを宣言するためにキリストは来ました。来世での復活を待つのではなく、この地上にいる時からあなたの中に復活を始めるためにキリストは来たのです。もしあなたが地上で彼と一体になるなら、罪も死もあなたを支配できないのです。あなたのすぐ隣に天国が来ておられます。だから大いに喜びましょう。
時間:10時30分~
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
礼拝当日、10時30分より
時間:10時30分~
礼拝当日、10時30分より
時間:10時30分~
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
礼拝当日、10時30分より