2025年12月6日土曜日

2025年 12月7日(日) 礼拝 説教

―待降節第2主日礼拝―

―アドベント第2主日礼拝― 

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  


説教=「みどり子はキリストとして生まれた」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』7 章6~9節
(新約74頁)

讃美=96.21‐229(Ⅱ.96).21‐29.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は、今回は1種類です。
説教動画は諸事情により、休止いたします。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 西暦、現在では共通紀元と呼ぶ暦とはグレゴリオ暦と申します。イエス・キリストの誕生をもともとは基準としていて定められ、その区分けの呼び方は原則、BC(英語でキリスト以前)、AD(ラテン語で「主の年」)とされます。キリストの降誕以前とキリスト降誕以降の時代として6世紀以降用いられている暦です。キリストの誕生を人類史に組み込んだ暦ではありますが、『聖書』でもキリスト以前の時代を示す『旧約聖書』の世界と『新約聖書』の世界として分たれるのは興味深いところです。
しかしだからといって、人のあり方に大きな変化が生じたかと申しますと、わたしたちは複雑な気持ちを覚えます。イエス・キリスト降誕以降の時代にあっても、イエス・キリストの名前を自己正当化に用いたり、権力による支配の正当化に用いたりという振る舞いは愚かな振る舞いは変わりありません。また『新約聖書』とりわけ福音書で人の子イエスが向きあう世もまた、人の子イエスに挑みかかるような人々に溢れています。そうなりますと、わたしたちは「イエス・キリストの誕生が何を変えたのか」「人の世はどう変わったのか」という問いかけを無視するわけにはまいりません。時代の経過にしたがって人類の起こす殺戮はより大規模なものとなりましたし、環境破壊と呼ばれる事態、なかんずく人類が滅亡させた動植物の種も数知れません。いったいわたしたちはイエス・キリストの誕生により何を突きつけられているというのでしょうか。
本日の『聖書』の箇所である『マルコによる福音書』7章では次のような物語が記されます。人の子イエスと同じように預言者の言葉を受け入れ、復活の教えに立って人々を導いていた律法学者、則ちその時代のユダヤ教の聖書学者が、エルサレムからガリラヤ湖のほとりであるゲネサレト地方にやってまいります。そしてイエスの弟子の中に洗わない手で食事をする者を見つけます。物語には次のような説明が付け加えられます。「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」。このような前置きがあって本日の箇所にいたります。衛生観念とした場合、わたしたちはむしろこの「言い伝え」としての戒めは決して悪くないと受け入れがちですが、なぜ人の子イエスはこの発言を批判するのでしょうか。
注目するところは、この時代の人々にとっての「水」が、わたしたちの暮らす地域での水とは全く異なる価値をもっていたところにあります。水が生存には不可欠な資源であるところには代りはありませんが、その水を「身体を清める」ために使用できる人々の数は実は限られていました。『旧約聖書』でも水をめぐる争いが『出エジプト記』には記されますが、まず人々のいのちに関わる事柄とは、その水で渇きを癒すという営みです。つまり水でもって手足を十分に洗い清められる人々は、社会的地位に恵まれ、その水を運搬する労働者を用いていたこととなります。豊かな人間は奴隷を用いてその水を運ばせていたかもしれません。ファリサイ派の人々には水を清めに用いるわざは、『律法』以上の意味として、その水を生活用水として用いられるところにさえ、自らの優位を確かめていたところにありました。清潔さとは特権と成り果てました。だからこそ人の子イエスは辛辣な言葉を投げかけたのではないでしょうか。
 飲料水を清潔に保てないところから疫病が流行し、多くのこどもたちがいのちを失っていった地域にアフガニスタンをあげることができます。あのタリバンでさえできなかったことを中村哲医師はジャララバードという土地で自分のいのちと引き換えに成し遂げました。一方、わたしたちが不衛生な身なりのまま涙を流しながら路地を走るこどもと出会ってしまったら、何をするというのでしょうか。キリスト以前の世であれば、わたしたちはそのようなこどもの姿を「見なかったことにする」という選択肢も持てます。しかし今のわたしたちには、各々の生涯にあってイエス・キリストと出会ってしまったのです。そのなかで先ほどのこどもと出会うならば、思わず抱きしめ、相応の行政の窓口、あるいは何らかの手立てはないものかと対応を尋ね求めることでしょう。今もまた、弱者に対する排除と憎しみ、「ウィークネス・フォビア」がいたるところで跳梁跋扈する時代となりました。そのような世にあって、イエス・キリストが弱さの究極の姿であるみどり児の姿をまとって世に生まれた出来事ほど尊いものはないと確信します。未だにキリスト以前の体裁である時代にあって、みどり児イエスの姿を待ち望む者として、弱さを尊び受け入れるあり方を選びたいと願います。

2025年11月28日金曜日

2025年 11月30日(日) 礼拝 説教

   ―待降節第1主日礼拝―

―アドベント第1主日礼拝― 

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「目を覚ましていなさい」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』13 章32~37 節
(新約90頁)

讃美=94. 21‐561(420).  21‐26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 「あなたはなぜ神様を信じるようになったのか」との問いは、洗礼を授かりキリスト者となったと公に言い表す場面と不可分に受けとめられがちです。しかし相応の齢になりますと、そのあり方に到達し、さらにはそのあり方に始まる道筋が実に多様であり語り尽くせぬように思えてきます。そのような理由からわたしは「『聖書』に書いてあるから」としか答えようがないと考えています。それでは福音書の世界ではどのような具合であったかと申しますと、何度も繰り返し申している通り、その場には今日『新約聖書』と呼ぶ書物はございません。その代わり人々は現代では『旧約聖書』と呼ばれる書物を大切にしながら、救い主の誕生を待ち望み、その救い主がイエス・キリストであるとの確信に立ち、その教えと行いを伝え広めてまいりました。そのわざは今日もまた続いています。

 しかしかつての教会のあり方として特に際立つのは、世の終わりが近いとの切迫感が今日のわたしたちのあり方と較べてまことに強かったところにあります。例えば水曜日に行なった祈祷会では『イザヤ書』13章をともに味わいました。そのなかではとりわけユダヤ人とは異なる、バビロニア王国による審判が描かれ、そこには「身よ、主の日が来る。残忍な、怒りと憤りの日が。大地を荒廃させ、そこから罪人を絶つために」という、世に破滅をもたらす終末の一面について記されます。エルサレムの滅亡とともに囚われの身になったユダヤの民がふるいに掛けられ、神に逆らった罪人は滅ぼされるとも記されます。しかし囚われの身、すなわち捕囚の時代が長く続くなか、その後大きな石の下敷きになるようにユダヤの民には入れ替わり立ち替わり交代する支配者のもとで、必ずしも「世の終わり」が世の破滅ではなく、支配する側・される側を超えた神の愛による統治をもたらす救い主が現れるとの待望に熟成されていきます。数世代にわたる異なる民との接触と交わりに基づいて、ユダヤの民だけが救われるのではなく、すべての民が神の愛により苦しみの縄目から解放されるのだとの理解も生まれ、その理解が成熟してまいります。だからこそ『マルコによる福音書』13章でも次のように記される事情が整うのです。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そいうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」。『旧約聖書』では世の終わりの徴とさえ理解された戦争や自然災害や飢饉。これに対してイエス・キリストの教えには「起こるに決まっている」もの、つまり戦争・自然災害・飢饉に神の意志が隠されているのだとする理解からは距離を置くメッセージが秘められています。それよりももっと肝腎な事柄があると人の子イエスは語ります。それは「福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」との教えです。

 それでは神の愛による統治でもある世の終わり、立ち入って言えば世の支配や苦しみの終わりとはいつ訪れるのでしょうか。この問いに答える箇所こそが本日の福音書の言葉です。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じだけである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」。イエス・キリストが人の子イエスとして語った教えには、終末の訪れについては具体的には語られていません。それはわたしたちに神の愛の証しとしての宣教が委ねられているからに他なりません。語られてはいないからこそ、神の愛を証しし、その教えを伝える役目を授けられているのです。いったいその時代の誰が、救い主は飼葉桶にお生まれになると予想し得たでしょうか。クリスマスの出来事が起きるときでさえ、世の権力を振るっていたヘロデ王にも、そのはるか上に立つローマ皇帝にも、救い主がどこに生まれるのかは隠されていたのです。

 だからこそわたしたちは、世に祝われる祝祭としてのクリスマスのなかに、イエス・キリストはどこにおられるのかと問い尋ねてみたいと願います。無抵抗で弱い、世には無力ないのちがあればこそ、理想からかけ離れたぼろぼろの姿になればこそ、救い主を待ち望むため「神の言葉」としての『聖書』に触れましょう。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」と『マタイによる福音書』7章にはあります。簡易な人工知能での説明は「積極的に行動することで、求めが満たされたり、困難が開かれたりすることを説く言葉」だとあります。しかし本来はそのような処世の枠には留まらないのが福音です。それは人に限らずすべての生きとし生けるものに関わり、かつすでに天に召された方々の遺した歴史、さらにはその方々が指し示すわたしたちの行くべき道に関わる「神の重大案件」を包むのです。人生の意味などないとふてくされる暇はありません。すべては虚しいと立ち尽くす暇もありません。虚しさを満たして溢れる喜びがすぐ近くに宿されています。待降節のともしびを、ともに仰ぎましょう。

2025年11月20日木曜日

2025年 11月23日(日) 礼拝 説教

―降誕前第5主日礼拝―

―収穫感謝日・謝恩日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「刈り入れを分かちあい、ともに喜ぶ」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』10 章17~22節
(新約81頁)

讃美=503.21‐566.21‐26.
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動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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【説教要旨】
 「はたらけどはたらけど なおわがくらし楽にならざるなり ぢっと手を見る」。明治時代、石川啄木が絶望の淵で詠んだ短歌。歌集『一握の砂』に納められています。本名石川一(はじめ)。1886年2月20日、岩手県盛岡市に曹洞宗の僧侶の息子として生まれた啄木は、結核により東京文京区小石川で26歳にて没するまで生来の虚弱体質と困窮のなか多くの歌を世にもたらしました。その中でもこの歌は19の言語に翻訳されています。
 啄木の詠んだ歌がこれほどまでに共感を生むのは、この「ぢっと手を見る」との言葉。なぜなら「手」には人の人生が凝縮され表わされているからではないでしょうか。
 例えばこの寒さの中水洗いをした母親の手。肉体労働に従事する人のもつ指にたこのできた分厚い手。鋤や鍬をもって田畑を耕す人の手。漁師のゴツゴツした手。今の時代にはそのような手の人は少なくなったとお考えでしょうが、熊の出没ニュースとともに知らされるのは、老いた農夫だけでなく若者もまた酪農や農業に回帰しつつあるなかで見せるその手です。
 また一年の間でごく数日しか休むことの出来ない飲食店勤務の主人や従業員の火傷とあかぎれのある手。手からはその人となりが分かるというものです。
無名の人々が連れてきたこどもたちを祝福した後、人の子イエスはとある人物に出会います。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。この人物に向けてイエスは「『殺すな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟、すなわち十戒をあなたは知っているはずだ」と語りかけます。ムキになって「先生、そういうことはみな、こどもの時から守ってきました」と答えるこの人。人の子イエスはこの人を見つめつつ慈しみながら「あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。その人は言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである、と結ばれます。
この人の手にはいったい何が刻まれていたというのでしょうか。人生の年輪でしょうか。長年にわたって机に向かった結果授かったペンだこでしょうか。インク滓にまみれた爪でしょうか。本当は何もなかったのかもしれません。
それは走り寄って人の子イエスにひざまずくという態度、そして「たくさんの財産を持っていた」との解説に示されます。古代社会の富裕層は労働を身近なところから遠ざけようとしていました。労働とは奴隷階級または身分の低い人々が従事するのであって、イエス・キリストと哲学的な対話に興じようとする人には縁遠いわざでした。
この金持ちの男と出会う前、人の子イエスは無名の人々が連れてきたこどもたちを一人ひとり抱きあげて祝福されました。どのような匂いがしたことでしょう。わたしたちにはおそらく直ちに「お風呂に入りなさい」という他ない体臭であったと思います。けれどもそのようなこどもたちをイエス・キリストは「神の国はこのような者たちのもの」だと断言します。金持ちの男の人生には選択肢があります。しかしこどもたちには人生の選択肢はありません。
「あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい」。それは単なる施しや「天に宝を積む」との意味ばかりを示しているのではありません。それはこの富める人物がイエス・キリスト自らが祝福した人々と交わりを深めるようにとの促しの言葉です。その言葉を行いに映し出すわざは、そのままイエス・キリストに従う道を示しています。だが悲しいかなこの富裕層の人物がこの言葉の真意を知るには今少しの時が必要でした。それは、イエス・キリストの十字架の報せにより、富への執着から解放される時です。キリストに「売り払いなさい」と言われてこの人は初めていかに多くのものを享受してきたのかを知ったのでしょう。
本日は収穫感謝日礼拝です。秋の実りを主なる神に深い感謝を込めて献げる礼拝を執り行っています。肥料も電力も燃料も労働者も少なくなっている中、物価高の中で収穫された尊い実りです。時によっては金銭よりも重要になる実りです。イエス・キリストが仲立ちをしてくださり始めてわたしたちはこの恵みを授かります。
主なる神に祝福されたこの実りが神の愛に満ちた交わりにあって用いられるようにと祈ります。そして何よりも泉北ニュータウン教会の伝道の働きが、神を忘れた、神を知らない公権力の流す情報、役所や政府の流すガバメントスピーチに挫かれることなく、釜ヶ崎を始めとした住まいを失った人々との交わりの象徴としても用いられるように祈ります。わたしたちの手は、果たして何を語るのでしょうか。手を合わせて祈りを献げてまいりたいと願います。

2025年11月14日金曜日

2025年 11月16日(日) 礼拝 説教

―降誕前第6主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「とりこし苦労からの解放」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』13 章5~13節
(新約88頁)

讃美=Ⅱ80.21‐474.21‐26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 「わたしの時代はこうだった」「わたしはこれだけやってきた」。誰でも人は経験則に則して常識を考えがちですが、そのような言葉がいつの間にかよかれと思って相手を傷つける「マウンティング」にしかならない場合があります。「マウンティング」とは本来ならば動物行動学で使われる言葉で、ある群れで自分が相手よりも優れている意志を示しながらも争いを避けるために編み出された本能に根ざす行為であると言われます。一般にこのマウンティングが溢れる場所は次第に新しい人が遠ざかり、孤立した集落から限界集落へと転じると言われます。しかしマウントをとる側の気持ちも分からないわけでもありません。明らかに時代の流れが変わっているのにも拘わらずどうすれば分からない場合、相手に自ら背負ってきた常識を超えて何かを伝えるのは至難のわざです。卑屈にならず、相手に媚びずに会話や立ち振る舞いの周波数を合わせたり理解を示したりする場合、相当な工夫や努力を必要とします。

 神の国の訪れ。神の愛による世の揺るぎない統治。これを『聖書』は夢物語や死後の世界の話としてではなく、「神自らが約束した、世にあってすでに訪れてはいるものの、まだ始まったばかりの時と場所を問わない救いの訪れ」として書き記します。しかしこの時代のユダヤの民の理解では、ローマ帝国の支配への抵抗意識から、それまでの社会秩序が崩壊し、自分たちだけが神の栄光を授かるとの考えに走る者もおりました。また歪んだ選民思想がその考えに入り込むとの問題もありました。言ってみれば神の救いを前にしての異邦の民に対するマウンティングです。人の子イエスの弟子たちもまたこのような勇み足を踏んでいたと考えます。

 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」。イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」。すべての経験則を破壊された人々は必ず新しい権威や拠り所を求めて混乱状態に陥り、次から次へと現れる偽の救い主に惑わされるだろうとの話です。畿内の県知事選挙に関してSNSを用い悪質なデマを流していた一部の人にはカリスマ的な人物が先日逮捕されましたが、その人物への支持者に共通するのは「ウィークネスフォビア」「弱者への憎しみ」という点です。日本社会でいうところの「同調圧力」だと言えるかもしれませんが異なるのは少数者や弱者、異質な者に対するバッシングを通して自分はそうではないとの陶酔に酔ったり荒唐無稽な証明を試みたりするところにあります。しかしイエス・キリストは自らがそのような激しいバッシングの相手となり苦しみを受けられました。「人に惑わされるな」との声は今も響きます。

 「戦争の騒ぎやうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである」。この箇所に人の子イエスの冷静かつ現実的な視点を窺えます。「そういうことは起こるに決まっている。まだ世の終わりではない」。そしてこの混乱に「産みの苦しみ」という意味づけをします。女性の出産の苦しみを重ねます。つまり神の国を前に新しい時代が始まるときにはこのような混乱は起こるに決まっているというのです。「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる」。今朝の福音書は人の子イエスの十字架と復活の出来事から40年を経て成立したと言われます。書き手集団が見つめてきたのはその次の世代と自分たちの世代、つまり「使徒の時代」の人々が味わった苦難です。なぜこのような苦難を味わうのでしょうか。気づけば皇帝も含めて人に惑わされない少数者となっていたからではないでしょうか。しかしそれでも神の愛による統治は全うされません。

 その理由とは「すべての民にイエス・キリストの喜びの報せ」が宣べ伝えられてはいないからです。様々な苦難を経てなおわたしたちは主イエスにあるところの喜びを語り、証しできます。12節にある阿鼻叫喚の世界も、もはや現実に起きている事案です。また、混乱の姿を呈してはいないというただそれだけの理由で憎しみの対象となるのも「人に惑わされてはいない」あり方の裏返しとして十分にあり得ます。「しかし最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。様々な世の混乱にあって動じなかった人々は、譬えその身が滅ぼされようとも救われるとあります。10年の間、告別式の折に体験してきたのは他でもない、まさにこの厳粛な出来事です。1945年4月にフロッセンビュルク強制収容所で殺害されたD.ボンヘッファーは不当な処刑の際に及んで次のように語りました。“It is the end, for me the beginning of Life.” 先々の不安に苦しむよりも、いつも人生は素晴しいと語り、互いに祈りあう者になりたいと願います。

2025年11月7日金曜日

2025年 11月9日(日) 礼拝 説教

   ―幼児祝福式礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「神のこどもたちに気づかされて」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』12 章18~27節
(新約86頁)

讃美=467.461.21‐26.
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【説教要旨】
 「係累に縛られる」または「係累を絶つ」との言葉があります。土地や親戚・親族との関わりの中で曰く言いがたい困難を抱えた人が、家を捨てて、または故郷を捨てて都会に出て仕事に就きます。暫く家族への仕送りを続けたものの、そのつながりを絶ったほうが生きやすさを感じた人々もいました。都会に出れば氏素性を問われず、実力で職場や社会で認めてもらえる、または認めてもらいたいとの願いから家族から疎遠になっていったその果てに、生死も含めて孤独にまつわる課題が問われます。家族を失うとはどういうことなのか。孤独死だけでなく孤独に由来するさまざまな疾病、アルコール中毒や薬物流布の温床となります。そして当の本人は何をどうすればよいのか知識を得られずに衰弱してまいります。日本の都市設計は決してすべての年齢や世代の人々には開かれてはおりません。あくまでも消費の源となる人々に絞り込まれてまいります。

 もちろん福音書の世界には現代の消費社会を可能とするような人口も経済構造もありません。けれども『旧約聖書』成立の時代から一貫して流れていたのは「神の祝福」とは「子を多く授かるか」に懸かっていたという、男女の社会的役割が頑なに固定されていたという状況でした。もしも現代で伴侶の同意なく多くの出産がなされたという場合、状況によればそれは夫から伴侶に対する家庭内暴力だと解釈されます。そのような深刻な状況を、ただ人の子イエスを陥れるための詭弁として用いるところにサドカイ派の人々の大きな過ちがあります。こどもを授かれなかった家庭、なかんずく当時の女性が被った社会での偏見はわたしたちの想像を絶するところがあったことでしょう。そして譬え多くの出産を経験したところで女性の被る身体へのダメージを充分に癒すところもなく、授かったこどもたちのもつすべての特性が社会で許容されていたわけでもありません。そのような受け皿を失った社会の無責任さを放置したまま、本日の箇所で祭司職に属するサドカイ派の人々は相続の話を通して人の子イエスを試みます。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎを設けねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にはその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女は誰の妻になるのでしょうか」。確かにこのような品のない議論を吹っかけてきたサドカイ派には酌量の余地があります。それはサドカイ派の拠り所となる『聖書』のテキストとは『律法』のみであり、そこには死者の復活の出来事がそのものとしては記されてはいません。各々の物語は登場人物が世にある生を全うし墓に葬られ節目を迎えます。しかしだからと言って、家族や人間の生死に関わる問題を軽々に扱ってよいとの話にはならないのです。

 この態度に対してイエス・キリストは次のように答えます。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者ではなく、生きている者の神なのだ」。アブラハムが埋葬されて数百年の後とされる『出エジプト記』の物語で、なおも神はアブラハムの神であり続けています。アブラハム自ら「大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数え切れないであろう」との約束にも拘わらず授かったのはイサクとイシュマエル、それもイシュマエルは追放の憂き目に遭っています。さらに人の子イエスは父ヨセフとの血の繋がりはありません。係累からは外れているとの見方もできます。しかしアブラハムの神はモーセには奴隷解放の神として、わたしたちには救い主イエス・キリストを遣わした愛の神として今なお現臨されておられます。その意味でアブラハムもイサクもヤコブも弔いを経ながらも弔いを超えています。『聖書』を土台とした復活の出来事への理解はこのような面からも可能なのです。

 DVなどの事情なしに家族を自らの足枷としてのみ考える人がいるならば、今一度その足枷が、行く道を違わないためのキリストに課せられた軛として受けとめる必要があります。松本清張の小説『砂の器』のような、自らの夢の実現のために家族を犠牲にしたところで何も得られません。わたしたちの目の前には何よりの宝である幼子が神の祝福を授かるために招かれました。この場を覚えて祈る方々すべてにとって、この子たちは何よりの希望、何よりの喜びです。22世紀にいたる生涯を歩むお子さんらに、そしてご家族に、主のますますの祝福を祈ります。

2025年10月31日金曜日

2025年 11月2日(日) 礼拝 説教

    ―永眠者記念礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「死はいのちへの転換点」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』7 章14~23
(新約74頁)

讃美=520.519.21‐26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
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【説教要旨】
 足かけ15年続いたアジア・太平洋戦争に破れ80年が経ちました。和暦で数えれば今年は昭和100年となります。みなさまのお手元には112名にわたるところの天に召された兄弟姉妹のお名前が記されています。このなかには戦時中に天に召された方々、戦中・戦後の混乱期を生き抜かれて生涯を全うされた方々、高度経済成長期に生まれ、懐古すれば社会が前向きに発展していたと思われる時代に生を授かりながら、社会矛盾や家族間で葛藤を覚えつつ天に召された方々、さまざまな激務に追われるなかで、心ならずも生涯を全うせずにはおれなかった方々の名が記されています。然るに泉北ニュータウン教会の礼拝では、とある教会員の生きざまを経て、礼拝を締めくくり世に派遣される折に献げられる祝福と派遣の言葉に「あなたのみもとに召された兄弟姉妹のうえに」との一節を添えるにいたりました。これにより毎週の聖日礼拝には世にあるわたしたちだけではなく、主のみもとに召された兄弟姉妹もともに礼拝を献げているとの確信をより一層深く分かちあうようになりました。

 在来の仏教では初七日、四十九日、一周忌、三回忌、さらに三十三回忌~五十回忌の弔いあげと節目をつけて法事が営まれます。おそらくはこのリズムで故人を見送ったご遺族・近親者の方々のグリーフワーク、ご心痛の緩和ケアーも兼ねてのわざとして行われるのかもしれませんが、場合によれば召された方々を在来仏教で言う浄土や涅槃、別の言い方をすれば記憶から遠ざける作業のようにも思えます。辛いことも悲しいことも水に流すという言葉が時に癒しとして意味づけられていく文化。なぜそのような倣いが求められるのかと問えば、一重に死の意味づけが「汚れ」とされるからだと思うのです。葬儀用のホールに行けば、エレベーターの扉のわきには必ず清め塩が備えられています。塩を身体に撒いてもらい、気分を切り換えようとする姿勢を、わたしたちの社会は暗黙のうちに求めます。その果てには墓石を積み上げた、痛ましい「墓終しまいの姿」があります。

 しかしながら「もうくよくよするのはやめよう。昔のことだからいろいろ言っても仕方が無い」との道筋で大切な方々の記憶を封じてしまうのは実にもったいなく感じます。教会では少なくとも週に一度は必ず礼拝を献げます。かつて新型コロナ禍の最中にあっても様々な工夫を凝らしてこの礼拝を続けようとわたしたちは苦闘いたしました。それは何よりもわたしたちにはある人が天に召された事実とは、決して忘れてはいけないかけがえのない歴史であり、一人ひとりが紡いできたいのちのバトンのリレーに他ならないからです。結婚式も告別式も、主なる神を讃える礼拝には変わりません。
本日の『聖書』の箇所で「外からわたしたちの体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すものである」とイエス・キリストは語ります。人の中から出て来るものとは何か。それは「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」とあります。わたしたちの暮らしと時に不可分であるところのこれらこそ、イエス・キリストが汚れとする事柄です。

 翻って考えれば、天に召された方々は、その道筋には数あれども、主のもとでとこしえの平安を得ているところにはそのような汚れはありません。福音書に記された「死後の世界」とは、古代ギリシアの考えとともに持ち込まれたものであって、人の子イエスもその教えを身に刻んでいた『旧約聖書』の世界では、さしたるものとしては考えられてはおりませんでした。むしろ人々はわたしたちの暮らしと同じようにさまざまな過ちを犯し、苦悩しながら齢を重ねて新しいライフステージを迎えるように、死もまた荘厳な新たな人生の始まりとしての意味づけがなされます。なぜでしょうか。そこには復活という死を限界づける新しいいのちの始まりが神の愛による確信のもとで書き記されているからです。「死は終わりではない」。世にある責任を果たしながら、その光のなかで、わたしたちは死を恐れながらも絶望には足りないと確信します。そしてその確信のなかでわたしたちは互いに助け合いながら、今わたしたちの目の前にあるところの肖像をイエス・キリストの十字架に重ねて、輝くいのちの希望を授かりたく願います。天に召された方々は、崇拝の対象にこそなりませんが、お一人おひとりが主の御使いとしてわたしたちの傍らに立っています。わたしたちの胸に刻まれたその生涯の刻印は決して消え去りはいたしません。だからこそわたしたちは、イエス・キリストを通して、召された方々が切り拓かれた道から、またそのお姿から、励ましの力をいただいて、新しい一週間を始めることができるのです。世にある交わりと、主なる神のもとにある交わりとは、イエス・キリストを通していつまでも堅く結ばれています。

2025年10月25日土曜日

2025年 10月26日(日) 礼拝 説教

  ―降誕前第9主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「出会いは神こそがなせるわざ」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』10 章2~12 節
(新約81頁)

讃美= 187.Ⅱ-167.21-27.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。教会での結婚式のクライマックスである、新郎新婦が神の前で立てる約束。日本基督教団では本日の箇所から引用した聖句を式文として用いています。この箇所だけ切り取りますとまことに荘厳な響きのする一方で、実際の生活に酷く傷つけられた方々には胸傷む場合もあるに違いありません。

 しかし福音書のみならず『聖書』の記事を味わう上で要となりますのは、書かれた文章であるテキストだけでなく、文章としては必ずしも記されていないところの文脈です。この文脈とは物語上に限らず、その時代の生活文脈といったその時代の暮らしに迫るなかで明らかになります。

 そう考えますと「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」という誓いの言葉が、ただならぬ緊張感とともに発せられたところに気がつきます。現代のわたしたちの暮らしとは異なり、福音書の重要な舞台となる古代ユダヤ教の世界では、現代の原理主義的なキリスト教やユダヤ教、イスラーム以上に女性は社会的にはその人格を認められていませんでした。なぜ現代の、と申しますと、現代では男女関における不平等というものは必ずジャーナリズムにより批判の俎上にあげられますが、この社会ではかような問題を俯瞰し、その是非を問うこと自体が社会のしくみを脅かすわざとして退けられていたからです。例えば律法学者たちによる裁判に際しては、女性はその発言を証言として重んじられはいたしませんでした。また『創世記』におけるところの族長物語が引用されながら、男性が女性に対してなかなか子を授からないからという理由で三行半をつけることもまた一定の常識の範囲に収まっていました。様々な病気に罹患したときにでさえ、他の口実によって突き放されるのも茶飯事です。なぜならば治癒できない病に罹患するのは、その人自らの「不信仰」または神に対する「不誠実」によると説明されたからです。女性が男性を見限るのは不正であっても、男性が女性を見捨てるのは認められていたという大きな問題がそうとはされないままに放置されていました。

 そのような見捨てられた女性たちを「やもめ」と呼ぶのであれば、イエス・キリストはまさにやもめたちと語らい、その痛みを癒し、謙ってその声に耳を傾けていました。当然それはその時代常識に反します。このような次第ですので常識の柱となる律法学者には目の上のたんこぶとなります。「夫が妻を離縁することは律法に適っているのか」という質問は人の子イエスの態度に向けた直接的な攻撃として今や向けられます。「モーセはあなたたちに何と命じたのか」問う人の子イエスに対する答えは「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」。確かに『申命記』24章には「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見出し気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」とあります。しかしこれは一方的な離婚を認めるというよりは、当時の夫による一方的な離縁にあたって妻が再婚権を失う問題を解決するため、女性に再婚の権利を保障するという意味合いもありました。「目には目、歯には歯」という同害復讐法が実は行き過ぎた刑罰を抑止するための法律であるにも拘わらず、復讐を正当化する解釈へと変容していったように、人の子イエスの時代にはこのような歪んだ解釈がまかり通っていたといえるでしょう。

 そのような律法学者に対して人のイエスは「天地創造物語」を引き合いに出します。つまり当時の時系列としてはモーセの登場よりもはるかに前「神は人を男と女とにお造りになった」「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」と語ります。男性も女性もヘブライ語では「アダム」であり、家族のミニマムな単位は血縁のないパートナーとしての夫婦だというのです。だから11節では女性も男性もともに神の前で責任を担うこととなります。

 教会で行われる結婚式の誓いは、離縁についての教えから生まれたこと、則ち身を切り裂くような、うち捨てられた女性の悲しみをイエス・キリストが真正面から受けとめたところから始まります。現在、一人親世帯の経済的な困窮には、高度経済成長期以降、かつてないほどの苦難があります。それは律法学者による詭弁の素材とするにはあまりにも酷であります。しかし様々な痛みや迷いを経て、人はまた新たな出会いを授かってまいります。その出会いを神自らの光に照らして、イエス・キリストの導きに気づかされるとき、わたしたちは深い痛みの中で結ばれた絆を授けられるのではないでしょうか。その絆は何に基を置くのか。それが今問われています。