―聖霊降臨節第13主日礼拝―
時間:10時30分~可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
『旧約聖書』を読み進めてまいりますと時折実に凄惨な合戦の場面に出会います。とくに『ヨシュア記』や『士師記』は残酷さを極めます。例えば『ヨシュア記』10章29~30節には「ヨシュアは全イスラエルを率いてマケダからリブナへ向かい、これを攻撃した。主がこの町も王もイスラエルの手に渡されたので、剣をもって町を撃ち、その住民を一人も残さなかった。リブナの王に対してもエリコの王と同じようにした」とあります。これは「聖絶」という理解で語り継がれてきた話であり、戦争中の日本の教会もまた聖日礼拝説教で扱った箇所だとも言われています。しかしこのような無差別な殺戮を現代のわたしたちが認めてよいはずがありません。それではわたしたちはどのように読み解けばよいのかという疑問の中で、あらためて『創世記』4~12章を開きます。するとそこには、イスラエルの歴史の中で手に掛けられた人々も含めて全ての民がアダムとエバから出たとの記事があります。これは何を示しているかと申しますと、歴史の歩みのただ中でイスラエルの民の歪んだ選民思想への牽制として、彼らの敵対する民もまた血の繋がりがあるとのメッセージを聴くことができます。則ち、原初に起きた殺人行為が兄カインによる弟アベルの殺害であったとの兄弟殺しが繰り返されてきたとの理解によって、一見するとイスラエルの民の勝ち戦に見える戦いでさえ、それはまことに罪深い人の営みであるとの認識にも立ちうるとの解釈です。日本でも戦国時代に大名同士が姻戚関係に立ち、和睦の証しとしたように、古代ヘブライ人にとっては血縁による繋がりが平和への道であるとの一縷の希望がありました。
しかし本日の『新約聖書』の箇所で、人の子イエスは奇異なわざに出ているようにも思われます。それは「イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「ご覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。『わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。』そして弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と記されます。同様の記事を『マルコによる福音書』は「周りに座っていた人々」と記します。人の子イエスは弟子たちとともに旅を続けながら教えを宣べ伝え、癒しのわざを行っています。その行方は家族にも分からないという場合も出てまいります。ですから人の子イエスの係累、血族からいたしますと本日の箇所とは実につれない立ち振る舞いに映っても何らおかしくはありません。おそらく母親も含めて家族は返されたその言葉に深く肩を落としたことでしょう。
しかし反対に、人の子イエスの話に耳を傾けていた弟子や群衆にはどうであったかと考えますと、必ずしも肩を落としたとは言えません。弟子も関わる「群衆」には、確かにそこに集まっているけれども、横の繋がりが一切ない人々が示されます。そこに集まっているだけの人々に対して、イエス・キリストは「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と呼びかけます。血の繋がりなど一切関わりのない人々が、そこでは「わたしの兄弟、姉妹、また母である」と呼びかけられたときに覚える喜びはいかなるものであったでしょうか。このように本日のイエス・キリストの言葉は、観る角度によってその意味が正反対の切れ味を帯びる場合もあります。
それでは本当のところ、人の子イエスはわたしたちが社会一般でいう家族のつながりを疎かにしていたのかと言えば、決してそうではなかったとも言えるでしょう。何しろ、弟子たちがすべて逃れていったとき、十字架で息絶えたわが息子の姿を凝視し続けたのは母マリアであり、それゆえに後世には「ピエタ」という十字架で処刑されたイエス・キリストの亡骸を抱きしめる母の姿が描かれるほどであるからです。あの彫刻の描写には確かに作り手の解釈もありますが、ではなぜその彫刻を前にしてわたしたちは涙を流すほど感動するのでしょうか。
確かに『旧約聖書』『創世記』2章では、家族の最小限の単位は血縁のない「夫婦」だとされています。しかし他方でわたしたちは新しいいのちを授っていくという賜物を主なる神から備えられます。こどもたちはやがて育ち、出会いを経て異なる人と結ばれて、いつしか親離れをしてまいります。だからこそわたしたちにとっては血のつながりを超えた「神の家族」という言葉によって表わされる交わりを大事にし、頼る先を増やしながら、自らの孤独を飼い慣らすことができるのです。エスニシティ(民族や文化、習俗)による差別がまかり通る今、わたしたちが軸に据えるべきはイエス・キリストを基とした交わりです。その交わりが神の平和を築きあげます。