―永眠者記念礼拝―
時間:10時30分~  説教=「死はいのちへの転換点」
稲山聖修牧師
聖書=『マルコによる福音書』7 章14~23
聖書=『マルコによる福音書』7 章14~23
(新約74頁)
讃美=520.519.21‐26.可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
 足かけ15年続いたアジア・太平洋戦争に破れ80年が経ちました。和暦で数えれば今年は昭和100年となります。みなさまのお手元には112名にわたるところの天に召された兄弟姉妹のお名前が記されています。このなかには戦時中に天に召された方々、戦中・戦後の混乱期を生き抜かれて生涯を全うされた方々、高度経済成長期に生まれ、懐古すれば社会が前向きに発展していたと思われる時代に生を授かりながら、社会矛盾や家族間で葛藤を覚えつつ天に召された方々、さまざまな激務に追われるなかで、心ならずも生涯を全うせずにはおれなかった方々の名が記されています。然るに泉北ニュータウン教会の礼拝では、とある教会員の生きざまを経て、礼拝を締めくくり世に派遣される折に献げられる祝福と派遣の言葉に「あなたのみもとに召された兄弟姉妹のうえに」との一節を添えるにいたりました。これにより毎週の聖日礼拝には世にあるわたしたちだけではなく、主のみもとに召された兄弟姉妹もともに礼拝を献げているとの確信をより一層深く分かちあうようになりました。
 在来の仏教では初七日、四十九日、一周忌、三回忌、さらに三十三回忌~五十回忌の弔いあげと節目をつけて法事が営まれます。おそらくはこのリズムで故人を見送ったご遺族・近親者の方々のグリーフワーク、ご心痛の緩和ケアーも兼ねてのわざとして行われるのかもしれませんが、場合によれば召された方々を在来仏教で言う浄土や涅槃、別の言い方をすれば記憶から遠ざける作業のようにも思えます。辛いことも悲しいことも水に流すという言葉が時に癒しとして意味づけられていく文化。なぜそのような倣いが求められるのかと問えば、一重に死の意味づけが「汚れ」とされるからだと思うのです。葬儀用のホールに行けば、エレベーターの扉のわきには必ず清め塩が備えられています。塩を身体に撒いてもらい、気分を切り換えようとする姿勢を、わたしたちの社会は暗黙のうちに求めます。その果てには墓石を積み上げた、痛ましい「墓終しまいの姿」があります。
 しかしながら「もうくよくよするのはやめよう。昔のことだからいろいろ言っても仕方が無い」との道筋で大切な方々の記憶を封じてしまうのは実にもったいなく感じます。教会では少なくとも週に一度は必ず礼拝を献げます。かつて新型コロナ禍の最中にあっても様々な工夫を凝らしてこの礼拝を続けようとわたしたちは苦闘いたしました。それは何よりもわたしたちにはある人が天に召された事実とは、決して忘れてはいけないかけがえのない歴史であり、一人ひとりが紡いできたいのちのバトンのリレーに他ならないからです。結婚式も告別式も、主なる神を讃える礼拝には変わりません。
本日の『聖書』の箇所で「外からわたしたちの体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すものである」とイエス・キリストは語ります。人の中から出て来るものとは何か。それは「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」とあります。わたしたちの暮らしと時に不可分であるところのこれらこそ、イエス・キリストが汚れとする事柄です。
本日の『聖書』の箇所で「外からわたしたちの体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すものである」とイエス・キリストは語ります。人の中から出て来るものとは何か。それは「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」とあります。わたしたちの暮らしと時に不可分であるところのこれらこそ、イエス・キリストが汚れとする事柄です。
 翻って考えれば、天に召された方々は、その道筋には数あれども、主のもとでとこしえの平安を得ているところにはそのような汚れはありません。福音書に記された「死後の世界」とは、古代ギリシアの考えとともに持ち込まれたものであって、人の子イエスもその教えを身に刻んでいた『旧約聖書』の世界では、さしたるものとしては考えられてはおりませんでした。むしろ人々はわたしたちの暮らしと同じようにさまざまな過ちを犯し、苦悩しながら齢を重ねて新しいライフステージを迎えるように、死もまた荘厳な新たな人生の始まりとしての意味づけがなされます。なぜでしょうか。そこには復活という死を限界づける新しいいのちの始まりが神の愛による確信のもとで書き記されているからです。「死は終わりではない」。世にある責任を果たしながら、その光のなかで、わたしたちは死を恐れながらも絶望には足りないと確信します。そしてその確信のなかでわたしたちは互いに助け合いながら、今わたしたちの目の前にあるところの肖像をイエス・キリストの十字架に重ねて、輝くいのちの希望を授かりたく願います。天に召された方々は、崇拝の対象にこそなりませんが、お一人おひとりが主の御使いとしてわたしたちの傍らに立っています。わたしたちの胸に刻まれたその生涯の刻印は決して消え去りはいたしません。だからこそわたしたちは、イエス・キリストを通して、召された方々が切り拓かれた道から、またそのお姿から、励ましの力をいただいて、新しい一週間を始めることができるのです。世にある交わりと、主なる神のもとにある交わりとは、イエス・キリストを通していつまでも堅く結ばれています。

