2025年11月20日木曜日

2025年 11月23日(日) 礼拝 説教

―降誕前第5主日礼拝―

―収穫感謝日・謝恩日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「刈り入れを分かちあい、ともに喜ぶ」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』10 章17~22節
(新約81頁)

讃美=503.21‐566.21‐26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 「はたらけどはたらけど なおわがくらし楽にならざるなり ぢっと手を見る」。明治時代、石川啄木が絶望の淵で詠んだ短歌。歌集『一握の砂』に納められています。本名石川一(はじめ)。1886年2月20日、岩手県盛岡市に曹洞宗の僧侶の息子として生まれた啄木は、結核により東京文京区小石川で26歳にて没するまで生来の虚弱体質と困窮のなか多くの歌を世にもたらしました。その中でもこの歌は19の言語に翻訳されています。
 啄木の詠んだ歌がこれほどまでに共感を生むのは、この「ぢっと手を見る」との言葉。なぜなら「手」には人の人生が凝縮され表わされているからではないでしょうか。
 例えばこの寒さの中水洗いをした母親の手。肉体労働に従事する人のもつ指にたこのできた分厚い手。鋤や鍬をもって田畑を耕す人の手。漁師のゴツゴツした手。今の時代にはそのような手の人は少なくなったとお考えでしょうが、熊の出没ニュースとともに知らされるのは、老いた農夫だけでなく若者もまた酪農や農業に回帰しつつあるなかで見せるその手です。
 また一年の間でごく数日しか休むことの出来ない飲食店勤務の主人や従業員の火傷とあかぎれのある手。手からはその人となりが分かるというものです。
無名の人々が連れてきたこどもたちを祝福した後、人の子イエスはとある人物に出会います。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。この人物に向けてイエスは「『殺すな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟、すなわち十戒をあなたは知っているはずだ」と語りかけます。ムキになって「先生、そういうことはみな、こどもの時から守ってきました」と答えるこの人。人の子イエスはこの人を見つめつつ慈しみながら「あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。その人は言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである、と結ばれます。
この人の手にはいったい何が刻まれていたというのでしょうか。人生の年輪でしょうか。長年にわたって机に向かった結果授かったペンだこでしょうか。インク滓にまみれた爪でしょうか。本当は何もなかったのかもしれません。
それは走り寄って人の子イエスにひざまずくという態度、そして「たくさんの財産を持っていた」との解説に示されます。古代社会の富裕層は労働を身近なところから遠ざけようとしていました。労働とは奴隷階級または身分の低い人々が従事するのであって、イエス・キリストと哲学的な対話に興じようとする人には縁遠いわざでした。
この金持ちの男と出会う前、人の子イエスは無名の人々が連れてきたこどもたちを一人ひとり抱きあげて祝福されました。どのような匂いがしたことでしょう。わたしたちにはおそらく直ちに「お風呂に入りなさい」という他ない体臭であったと思います。けれどもそのようなこどもたちをイエス・キリストは「神の国はこのような者たちのもの」だと断言します。金持ちの男の人生には選択肢があります。しかしこどもたちには人生の選択肢はありません。
「あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい」。それは単なる施しや「天に宝を積む」との意味ばかりを示しているのではありません。それはこの富める人物がイエス・キリスト自らが祝福した人々と交わりを深めるようにとの促しの言葉です。その言葉を行いに映し出すわざは、そのままイエス・キリストに従う道を示しています。だが悲しいかなこの富裕層の人物がこの言葉の真意を知るには今少しの時が必要でした。それは、イエス・キリストの十字架の報せにより、富への執着から解放される時です。キリストに「売り払いなさい」と言われてこの人は初めていかに多くのものを享受してきたのかを知ったのでしょう。
本日は収穫感謝日礼拝です。秋の実りを主なる神に深い感謝を込めて献げる礼拝を執り行っています。肥料も電力も燃料も労働者も少なくなっている中、物価高の中で収穫された尊い実りです。時によっては金銭よりも重要になる実りです。イエス・キリストが仲立ちをしてくださり始めてわたしたちはこの恵みを授かります。
主なる神に祝福されたこの実りが神の愛に満ちた交わりにあって用いられるようにと祈ります。そして何よりも泉北ニュータウン教会の伝道の働きが、神を忘れた、神を知らない公権力の流す情報、役所や政府の流すガバメントスピーチに挫かれることなく、釜ヶ崎を始めとした住まいを失った人々との交わりの象徴としても用いられるように祈ります。わたしたちの手は、果たして何を語るのでしょうか。手を合わせて祈りを献げてまいりたいと願います。