2025年10月31日金曜日

2025年 11月2日(日) 礼拝 説教

    ―永眠者記念礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「死はいのちへの転換点」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』7 章14~23
(新約74頁)

讃美=520.519.21‐26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 足かけ15年続いたアジア・太平洋戦争に破れ80年が経ちました。和暦で数えれば今年は昭和100年となります。みなさまのお手元には112名にわたるところの天に召された兄弟姉妹のお名前が記されています。このなかには戦時中に天に召された方々、戦中・戦後の混乱期を生き抜かれて生涯を全うされた方々、高度経済成長期に生まれ、懐古すれば社会が前向きに発展していたと思われる時代に生を授かりながら、社会矛盾や家族間で葛藤を覚えつつ天に召された方々、さまざまな激務に追われるなかで、心ならずも生涯を全うせずにはおれなかった方々の名が記されています。然るに泉北ニュータウン教会の礼拝では、とある教会員の生きざまを経て、礼拝を締めくくり世に派遣される折に献げられる祝福と派遣の言葉に「あなたのみもとに召された兄弟姉妹のうえに」との一節を添えるにいたりました。これにより毎週の聖日礼拝には世にあるわたしたちだけではなく、主のみもとに召された兄弟姉妹もともに礼拝を献げているとの確信をより一層深く分かちあうようになりました。

 在来の仏教では初七日、四十九日、一周忌、三回忌、さらに三十三回忌~五十回忌の弔いあげと節目をつけて法事が営まれます。おそらくはこのリズムで故人を見送ったご遺族・近親者の方々のグリーフワーク、ご心痛の緩和ケアーも兼ねてのわざとして行われるのかもしれませんが、場合によれば召された方々を在来仏教で言う浄土や涅槃、別の言い方をすれば記憶から遠ざける作業のようにも思えます。辛いことも悲しいことも水に流すという言葉が時に癒しとして意味づけられていく文化。なぜそのような倣いが求められるのかと問えば、一重に死の意味づけが「汚れ」とされるからだと思うのです。葬儀用のホールに行けば、エレベーターの扉のわきには必ず清め塩が備えられています。塩を身体に撒いてもらい、気分を切り換えようとする姿勢を、わたしたちの社会は暗黙のうちに求めます。その果てには墓石を積み上げた、痛ましい「墓終しまいの姿」があります。

 しかしながら「もうくよくよするのはやめよう。昔のことだからいろいろ言っても仕方が無い」との道筋で大切な方々の記憶を封じてしまうのは実にもったいなく感じます。教会では少なくとも週に一度は必ず礼拝を献げます。かつて新型コロナ禍の最中にあっても様々な工夫を凝らしてこの礼拝を続けようとわたしたちは苦闘いたしました。それは何よりもわたしたちにはある人が天に召された事実とは、決して忘れてはいけないかけがえのない歴史であり、一人ひとりが紡いできたいのちのバトンのリレーに他ならないからです。結婚式も告別式も、主なる神を讃える礼拝には変わりません。
本日の『聖書』の箇所で「外からわたしたちの体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すものである」とイエス・キリストは語ります。人の中から出て来るものとは何か。それは「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」とあります。わたしたちの暮らしと時に不可分であるところのこれらこそ、イエス・キリストが汚れとする事柄です。

 翻って考えれば、天に召された方々は、その道筋には数あれども、主のもとでとこしえの平安を得ているところにはそのような汚れはありません。福音書に記された「死後の世界」とは、古代ギリシアの考えとともに持ち込まれたものであって、人の子イエスもその教えを身に刻んでいた『旧約聖書』の世界では、さしたるものとしては考えられてはおりませんでした。むしろ人々はわたしたちの暮らしと同じようにさまざまな過ちを犯し、苦悩しながら齢を重ねて新しいライフステージを迎えるように、死もまた荘厳な新たな人生の始まりとしての意味づけがなされます。なぜでしょうか。そこには復活という死を限界づける新しいいのちの始まりが神の愛による確信のもとで書き記されているからです。「死は終わりではない」。世にある責任を果たしながら、その光のなかで、わたしたちは死を恐れながらも絶望には足りないと確信します。そしてその確信のなかでわたしたちは互いに助け合いながら、今わたしたちの目の前にあるところの肖像をイエス・キリストの十字架に重ねて、輝くいのちの希望を授かりたく願います。天に召された方々は、崇拝の対象にこそなりませんが、お一人おひとりが主の御使いとしてわたしたちの傍らに立っています。わたしたちの胸に刻まれたその生涯の刻印は決して消え去りはいたしません。だからこそわたしたちは、イエス・キリストを通して、召された方々が切り拓かれた道から、またそのお姿から、励ましの力をいただいて、新しい一週間を始めることができるのです。世にある交わりと、主なる神のもとにある交わりとは、イエス・キリストを通していつまでも堅く結ばれています。

2025年10月25日土曜日

2025年 10月26日(日) 礼拝 説教

  ―降誕前第9主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「出会いは神こそがなせるわざ」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』10 章2~12 節
(新約81頁)

讃美= 187.Ⅱ-167.21-27.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。教会での結婚式のクライマックスである、新郎新婦が神の前で立てる約束。日本基督教団では本日の箇所から引用した聖句を式文として用いています。この箇所だけ切り取りますとまことに荘厳な響きのする一方で、実際の生活に酷く傷つけられた方々には胸傷む場合もあるに違いありません。

 しかし福音書のみならず『聖書』の記事を味わう上で要となりますのは、書かれた文章であるテキストだけでなく、文章としては必ずしも記されていないところの文脈です。この文脈とは物語上に限らず、その時代の生活文脈といったその時代の暮らしに迫るなかで明らかになります。

 そう考えますと「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」という誓いの言葉が、ただならぬ緊張感とともに発せられたところに気がつきます。現代のわたしたちの暮らしとは異なり、福音書の重要な舞台となる古代ユダヤ教の世界では、現代の原理主義的なキリスト教やユダヤ教、イスラーム以上に女性は社会的にはその人格を認められていませんでした。なぜ現代の、と申しますと、現代では男女関における不平等というものは必ずジャーナリズムにより批判の俎上にあげられますが、この社会ではかような問題を俯瞰し、その是非を問うこと自体が社会のしくみを脅かすわざとして退けられていたからです。例えば律法学者たちによる裁判に際しては、女性はその発言を証言として重んじられはいたしませんでした。また『創世記』におけるところの族長物語が引用されながら、男性が女性に対してなかなか子を授からないからという理由で三行半をつけることもまた一定の常識の範囲に収まっていました。様々な病気に罹患したときにでさえ、他の口実によって突き放されるのも茶飯事です。なぜならば治癒できない病に罹患するのは、その人自らの「不信仰」または神に対する「不誠実」によると説明されたからです。女性が男性を見限るのは不正であっても、男性が女性を見捨てるのは認められていたという大きな問題がそうとはされないままに放置されていました。

 そのような見捨てられた女性たちを「やもめ」と呼ぶのであれば、イエス・キリストはまさにやもめたちと語らい、その痛みを癒し、謙ってその声に耳を傾けていました。当然それはその時代常識に反します。このような次第ですので常識の柱となる律法学者には目の上のたんこぶとなります。「夫が妻を離縁することは律法に適っているのか」という質問は人の子イエスの態度に向けた直接的な攻撃として今や向けられます。「モーセはあなたたちに何と命じたのか」問う人の子イエスに対する答えは「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」。確かに『申命記』24章には「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見出し気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」とあります。しかしこれは一方的な離婚を認めるというよりは、当時の夫による一方的な離縁にあたって妻が再婚権を失う問題を解決するため、女性に再婚の権利を保障するという意味合いもありました。「目には目、歯には歯」という同害復讐法が実は行き過ぎた刑罰を抑止するための法律であるにも拘わらず、復讐を正当化する解釈へと変容していったように、人の子イエスの時代にはこのような歪んだ解釈がまかり通っていたといえるでしょう。

 そのような律法学者に対して人のイエスは「天地創造物語」を引き合いに出します。つまり当時の時系列としてはモーセの登場よりもはるかに前「神は人を男と女とにお造りになった」「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」と語ります。男性も女性もヘブライ語では「アダム」であり、家族のミニマムな単位は血縁のないパートナーとしての夫婦だというのです。だから11節では女性も男性もともに神の前で責任を担うこととなります。

 教会で行われる結婚式の誓いは、離縁についての教えから生まれたこと、則ち身を切り裂くような、うち捨てられた女性の悲しみをイエス・キリストが真正面から受けとめたところから始まります。現在、一人親世帯の経済的な困窮には、高度経済成長期以降、かつてないほどの苦難があります。それは律法学者による詭弁の素材とするにはあまりにも酷であります。しかし様々な痛みや迷いを経て、人はまた新たな出会いを授かってまいります。その出会いを神自らの光に照らして、イエス・キリストの導きに気づかされるとき、わたしたちは深い痛みの中で結ばれた絆を授けられるのではないでしょうか。その絆は何に基を置くのか。それが今問われています。

2025年10月15日水曜日

2025年 10月19日(日) 特別伝道礼拝 説教

―聖霊降臨節第20主日礼拝―

――特別伝道礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「死からいのちへ」
高木総平牧師

聖書=
『マルコによる福音書』4 章35 節
(新約68 頁)
『ヨハネの手紙Ⅰ』3 章14 節
(新約444 頁)

讃美= 21-57.21-575.21-27.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は、今回は「ライブ中継」
のみとなります。

礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 盟友、渡辺君が牧した教会でこうして奉仕できますことをうれしく思います。
 まずマルコの「向こう岸に渡ろう」との呼びかけは、私たち一人一人への呼びかけ、教会への呼びかけとして受け止めたいと思います。ではなぜイエスはお命じになったのでしょうか。向こう岸に苦しんでいる人たちがいたからです。この人は墓場を住まいとしていました。墓場に住むというのは、生きながら死んだ人のように扱われていたと言えるのです。
かつて友人がフィリピンの教会に宣教師として派遣されたこともあり、最初は教会の青年や牧師たちに呼びかけて、学校に行ってからは生徒や学生、教員に呼びかけて何度もスタディツアーを行いました。ある時、フィリピン合同教会の礼拝に出た後、長老さんたちが支援をしている家族のところへ一緒に行こうということで出かけました。そこはお墓の中にあるスラムの一軒でした。このマルコの記事と同じ世界です。このお墓以外にもスラムに住まざるを得ない貧しい人たちが多くいます。生徒や学生にはよく言いました。決してその環境に屈しているのではなく、いのちのために戦っている人も忘れてはならないと。九州教区ではそれまでの欧米志向を反省しアジアに目を向けようということで始まりました。ここでいう向こう岸でありました。その中で生き生きと目が輝いている子どもたちから大切なものを教えられました。
 また同時に臨床心理士として子どもや青年、時に大人の苦しみ、悩みにかかわることからも、豊かさや便利さを追求してきたこの社会の病める部分を強く感じるようになりました。そのような価値観の中で、この言葉でいうといろいろな「向こう岸」を作ってきたのではないかと思います。特にマイナスと思えることです。死や老い、病気や障害、特に悩むこと苦しむこと、失敗することなどです。宗教も多くの人にとってそうかもしれません。不登校生の高校生が「うちには宗教がない」と叫んだそうです。今のこの社会への大きな問いです。またこの日本の子どもたちの自尊感が他の国々より低いという調査もあります。
 自殺ということではどうでしょうか。私は自死と言った方がいいと思います。この国は先進国の中では自殺者が多いのです。特に気になるのが19歳以下の自殺者の多さには心が痛みます。人は追い込まれたり、いろいろ不幸なことが重なると死を考えるものです。その根底にはこの私など価値がないのだという思いがあることも考えられます。
 マイナスと思える苦難の極致である十字架の向こうに大きな救いがあるということがキリスト教の根本です。この社会は死を避ける文化だと恩師は言いました。少しは変わりつつありますが、まだまだです。死は決して決して暗い恐ろしいものではない、これが十字架の死から復活へと進まれたイエスが明確に強く示してくださったのです。死者も私たちも大きな御手の中にあります。天に帰った渡辺君は今も語り続けています。
 そのいのちを創りだされた神が、いのちに生きることを望んでおられる。それはマイナスと思えること、失敗すること、悩み苦しむこと、病むこと、障がいを持つこと、老いること、そして死ぬこと、それらに向き合うこと、社会の問題に向き合うこと、向こう岸にわたること、そこにいのちに至る道があると教えられます。

2025年10月11日土曜日

2025年 10月12日(日) 礼拝 説教

   ―聖霊降臨節第19主日礼拝―

――神学校日礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「汗水流して働く者はみな仲間」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』20 章1~16 節
(新約38頁) 

讃美= 21-521(344),504,21-27.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

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【説教要旨】
 21世紀も四半世紀を過ぎた現在の就労環境は20世紀とは大きく異なり、社員一人ひとりの机は大抵がブースで仕切られています。会議をする場合には相応の部屋へ移動いたしますが通常は目の前にPCがあり、入社時に出勤を記録するタブレットを押して担当の机に座ります。職場環境はほぼ無音で隣に座る人との会話さえメールで行われます。その理由はハラスメント防止で、直接会話をすることすら憚れるところもあるそうです。会社勤務の人々が時に心を深く病むという場合、背景としてそのような設定もあるのかと考えます。

 さてさような状況とは逆に、本日の聖書箇所で描かれますのは汗を流して働くぶどう園の労働者の物語です。現在のような電算処理化などされておりませんから、本日の譬え話で描かれた世界には様々な臭いが立ちこめています。町行く人々の声、砂を巻きあげる風。乾燥した空気。照りつける太陽。描かれるのは正規雇用の人々ではなく日雇いの労働者です。「ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出ていった。主人は一日1デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った」。まず注目するのはぶどう園の経営者自ら労働者を集めるためにその場に出かけていく場面です。学生時分に釜ヶ崎に暮らしたわたしには、労働者を集めるのは手配師と呼ばれる人の役目であり、経営者自らがその場に赴くなどとは考えられません。その意味でも譬え話に登場するぶどう園の経営者は不思議な人物です。この経営者は9時ごろにも人々がたむろする広場にやってきます。この時間に広場に立っている人はその日の仕事にあぶれたといってよい者です。この人たちに経営者は「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と呼びかけます。これが正午と午後3時、そして午後5時と続きます。職を得られず「立ちんぼ」するしかない労働者に経営者が尋ねると「誰もやとってくれないのです」との呻きにも似た声をあげます。午後5時の労働者は完全に世の中から見捨てられた様子が分かります。

 しかしながらぶどう園の労働は決して楽ではありません。ぶどうがたわわに実る環境とは適度に乾燥しなおかつ日当たりの良い場所でなくてはなりません。存分に蔓が伸びるためには広大な土地が必要で、収穫物はぶどうの実だけでなく食用に適う葉、細工物に使用する蔓など見極める必要があります。雑草抜きや畝作りもあります。そのような農場に大した計画性もなく連れてこられるのが本日の日雇い労働者です。確かに夜明けに連れてこられた働き手は懸命に働いたことでしょう。ひょっとしたら次から次へと労働者をスカウトしたのは、過酷な農場での働きにローテーションを加えるためだったのかもしれません。しかしその憶測は一人の労働者の言葉によって打ち破られます。則ち「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」との不平です。しかしこの一風変わった経営者は次のように答えます。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか」。このように答えるとは、あまりにも不思議です。この箇所をして「ベーシック・インカム」の雛形だと捉える人もおられますが、わたしはもう一歩立入って考えてみたいところがあります。それはこのぶどう園の経営者の真意とは、働いた成果に関心を寄せていたのではなく、この働きに関わる人の存在そのものが、それが誰であろうと、どのような特性をもっていようとも1デナリオンの値打ちを備えていたのではないかとの考えです。

 私事で恐縮ですが、わたしは15年余り前に天に召された母親を想い起こします。何度か申しあげましたが、母は1942年に現在の長春で生まれています。引揚げて後に結核性のカリエスを患いました。下に三人の弟たちがおりましたが、母の嫁いだ先は養鶏場。決して安定した職場ではなく、終には自宅を売り払って実家に移るという次第でした。しかし母が祖母の世話を献身的にしている間、経済的に苦しんだという経験は一度もありませんでしたし、そのような姿を見せることはありませんでした。弱さを抱える母とわたしたちを母方の兄弟が養っていたのです。しかし祖母が召され、母もわたしの実弟の弟とともに沖縄へ転居しましたところ状況は一変し、仲が良かったはずの母の兄弟は相続をめぐって争い、兄は61歳、次兄は58歳で召されました。表向きには役には立たない母のもつ弱さが家族を結びつける鍵となってはいなかったか。1デナリオンの重さを考える朝です。

2025年10月3日金曜日

2025年 10月5日(日) 礼拝 説教

―聖霊降臨節第18主日礼拝―

――世界聖餐日礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  


説教=「裸で生まれ、裸に還る」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』19 章13~23 節
(新約37頁) 

讃美= 74,21-155,讃美ファイル3,21-27
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

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【説教要旨】
 わたしたちは『聖書』の言葉を気持ちに併せて断片的に受けとめたり引用したりしがちですが、実は各々の段落がその連なりの中で新たに輝き始めもいたします。そういたしますとこれまで分かりきっていたかのように思えた言葉の響きに一層の深さを感じるにいたります。今朝の『聖書』では祝福を求めて集まってきた人々が弟子に叱られたところイエス・キリストが「こどもたちを来させなさい。わたしのところ来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである」と諫める箇所が描かれ、続いて「金持ちの青年」の物語が描かれます。金持ちの青年が人の子イエスに「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と問いますと、その時代のユダヤ教徒であればこどものころから暗唱する「十戒」が論じられ「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」と答えます。対してイエスは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と応じますが、青年はその声を聞いて悲しみながらその場を去る、つまりその時には人の子イエスからは直ちには祝福を授かれずに終ったというお話が描かれます。

 弟子たちに叱られたところのこどもを連れた人々と、豊かな資産をもった青年。実はこの物語はイエス・キリストを軸にして対比されているとも読みとれます。人の子イエスのもとに近づいてきた人々にしっかり手を結ばれたこどもたち。この大人たちとこどもたちとの関わりがどのようなものであったか、福音書ははっきりとは記しません。親子であったかもしれず、逆に血のつながりはなかったのかもしれません。しかし文章からすると弟子が歓迎せずに去らせようとしたところから極度に貧しいところに置かれたこどもたちだった線も色濃く考えられます。貧困層のこどもたちのいのちは、飢餓状態に置かれており明日をも知れません。中には栄養不足に由来する病に虫の息のこどもたちもいたかもしれません。事態はそこまで窮迫していたからこそ、人々は人の子イエスにこどもたちの癒しを求めてきたとも考えられます。

 他方で富める青年はこれまで十全な教育を受け、裕福な暮らしの中で学びを深めてきたからこそ「先生(ラビ)」と礼儀正しく呼びかけ人の子イエスに問いかけたと思われます。しかしイエスは問答や対話という仕方で青年に答えを授けようとはしません。むしろ全生活に及ぶ態度による応答を求めます。それは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施す」というあり方です。つまり人の子イエスの左側には裕福な育ちをしてきた青年がおり、その右側には群衆出身の弟子でさえ退けようとした名も無き人々とこどもたちがいます。文章全体の構成から申しますと、イエス・キリストは富める青年に貧しいこどもたちへの富の再分配を促しているように思えます。現代の言葉で言い換えればキリスト自ら手を広げて神の「ノーブレス・オーブリッジ」、裕福な者は貧しい者に対して責任を担うというあり方を青年に求めているとは言えないでしょうか。現代では裕福な立場の者は何らかの財団を設立して収益の一部を社会貢献に用いて始めて「富める者」としての信頼を授かります。反対に富める者は貧しい人々に仕え交わるわざにより視野を広げ、その実りとして社会にその富と暮らしに必要な糧が行き渡ります。
 ただしイエス・キリストのこの求めはより深いところから湧き出ているようです。それは『旧約聖書』の『ヨブ記』に明らかです。義しい人ヨブは理不尽な苦難に遭う中、さらに息子達を自然災害で失います。その報せを聞いてヨブは衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言うのです。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」。このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった、とあります。『ヨナ書』と異なるあり方も、神の前に立つ人の姿として記されます。

 穀物の高騰が止まない現在、ときにわたしの家でも政府の支援米に伴侶が工夫して季節感を出そうとサツマイモやジャガイモを入れて併せ炊きする場合があります。すると戦争経験者の言葉とは反対に、栄養的にはバランスの取れたご飯が炊けてしまいます。食べる量こそ少なくなりましたが、ひもじさを覚えてはいません。その意味では自ら食するものを貧しい人々に差し出したかつての伝道者や闇米を拒み餓死した判事には及びません。しかし本日の聖書箇所をそのように読みますと、「児孫に美田を残さず」にも繋がる考え、則ち食前の祈りにおいて、わたしたちは世界中で困窮しているこどもたちと無縁ではないどころか深く関わっていることを思い出します。財産に執着する生き方もある一方で、貧しさを分かちあう生き方もあると今朝の御言葉から気づかされます。