―聖霊降臨節第14主日礼拝―
時間:10時30分~説教=「人生の実りに問われる生き方」
稲山聖修牧師
聖書=『マタイによる福音書』13 章24~30節
(新約25頁)
讃美=21-421(日本語),21-434(320),21-26聖書=『マタイによる福音書』13 章24~30節
(新約25頁)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
9月を迎えました。昼間は強い日差しで辟易する日々が続きますが、暦は立秋をとうに過ぎています。夜半には虫の音が響き、懸命にいのちを繋ごうとする声が響いているようです。
そのような虫のうち、バッタの仲間が好むのがイネ科の植物。農家には邪魔者ですが、反面、信州や上州、奥州でイナゴは民衆には貴重なタンパク源でもありました。洗礼者ヨハネの食べ物もイナゴであったと記されます。
しかしそのイネ科の植物には暮らしに好ましくないものもありました。それが今朝の人の子イエスの教えに描かれる「毒麦」と呼ばれる植物です。毒麦とは栽培されるイネ科の植物の擬態雑草で、麦類の植物と同じペースで伸びやがて実をつけるのですが、その実には多量に摂取すると神経を冒すアルカロイド系の物質が含まれています。空腹のあまり危険を知らずに大食いすると嘔吐や下痢、場合には錯乱にまでいたるという植物です。身近なところでは山菜に含まれる「苦み」もその毒によるものだと言われていますが、よほどの目利きでない限り小麦などとは見極めがたいとされます。
本日の箇所で人の子イエスは「毒麦の譬え」と呼ばれる話を語ります。詳しくは『マタイによる福音書』を繰り返し読めば明らかですが、キリストとの関わりを試みたり邪魔をしたり、あるいは教会の交わりに分裂をもたらしたりする者を「毒麦」、日の光を一身に受けてすくすくとキリストへと向けて育まれ、豊かな実りを結ぶあり方を「良い種」として扱っている模様です。同じ畑に蒔かれた毒麦を他の麦と見分けるのは至難のわざですが、僕たちはめざとく毒麦に気づき「だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったのではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう」と主人に問いかけます。主人は「敵の仕業だ」と呟きます。農業が日々の生活のみならず、いざという時には兵糧にもつながる場合、このように敵対者が畑に塩をすき込む、または毒草の種を蒔くのは茶飯事でした。当然の事ながら目利きの僕は「では行って抜き集めておきましょうか」と迫るのですが、主人は「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかも知れない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れのとき、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう」と語ります。
わたしたちは暮らしの中で「必要悪」という言葉を聞きます。豊かな成果を得るには少数の犠牲もやむを得ないとする考え方です。しかしこの物語では、そのような必要悪といったものを畑の主人は認めようとはしません。むしろ毒麦ならば毒麦の、よい麦の種であればその麦の実りが、誰の目にも明らかになるまで一定の猶予の期間を設けます。この「神のモラトリアム」のなかで、誰が神の前で誠実であり、誰がそうではなかったかという態度がはっきりするというのです。
日本人にもよく知られたアメリカ合衆国第16代大統領としてエイブラハム・リンカーンという人物がいます。合衆国南北戦争の時代に北部23州の合衆国大統領として奴隷解放の立場を打ち出し、また日本の児童向けの偉人伝にもよく登場するこの人物。わたしたち大人には時に厳しい言葉をも投げかけます。それは「40歳を過ぎたのであれば、大人は自らの顔に責任をもて」とのメッセージです。何もその人の顔の美醜を問うているのではありません。その人が幾度人に裏切られてもなおも人を信頼し、誠実に歩んできたかがその人の顔に表れるという意味です。この朝、聖日礼拝の会衆席にリンカーンがいて、正面きってそのように問われたのであれば、わたしは自信をもってその問いに答えられるかは疑問です。
しかしイエス・キリストを中心としたこの交わりに、その理由はどうであれ集う方々は、主なる神から一定の赦しの時を備えられています。「わたしには信仰がありません。主よお助けください」と呼ばわる方々の顔こそが、その人が知らないままでリンカーンの語るところの「顔」をもってイエス・キリストを仰いでいるのではないでしょうか。世の倣いに則するならば、もっといえば通俗的な道徳に則するならば、人生の裏街道を目のあたりにしなければならなかった人こそが、さまざまな苦難や汚れを糧として、よい実りとして主なる神に献げられるに違いありません。ところで「毒麦」に含まれる毒成分は、現代の医療では薬用として用いられる分には貴重であるとされ、偏頭痛の治療や向精神薬にも用いられるとのことです。主が創造し給う被造物には一点の無駄も差別もありません。恵みに満ちた主の祝福を心から讃美し、深く感謝しつつ始める月といたしましょう。