2025年7月4日金曜日

2025年 7月6日(日) 礼拝 説教

   ―聖霊降臨節第5主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「神の言葉に打ち砕かれて」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』5章33~37節
(新約8頁)

讃美=21-436(515),522,Ⅱ-171.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が自らの民と結んだ誓いとは何か。今朝の『聖書』では『レビ記』19章12節に「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。互いに欺いてはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である」と「昔の人の言い伝え」として伝えられる中で文言が変えられていったであろう「聖句」があります。しかしこの「誓い」を考える上で示唆に富む物語が『旧約聖書』『士師記』にあります。『士師』とは「裁き司」とも呼ばれますが「士」「師」と漢字を分け、その文字のつく職業を考えますと合点のいくところです。いずれも目に見えない特別な信頼関係を前提にしなくては成立たない、いのちに関わる職種であり、『旧約聖書』の物語ではイスラエルの民がまた国の体をなさなかったころ、パレスチナの土地の豊かさの虜となり神を見失い、異民族からの干渉を受けますと民の中から召し出されるのが士師と呼ばれる人々がいます。士師の采配によって民衆は神の約束を思い出し、群れには秩序が回復するが、またその秩序が乱れると新たな士師が現れるといった次第です。

 その中にエフタという人物がいます。エフタは遊び女のこどもでしたから、家督を継げず、その時代のならず者、イスラエルの民の部外者(アウトサイダー)とともに日々を過ごしていました。この部外者集団のもとにイスラエルの民の長老がやってきて、武力で干渉してきた異邦の民と戦って欲しいと願います。エフタは「あなたたちはわたしをのけ者にし、父の家から追い出してではありませんか」と抗議しますが、終には長老の願いを聞き入れ、異民族の中でも力のあるアンモン人と戦うと決意します。しかし相手は容易に屈しません。そこでエフタは主に誓いを立てます。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモンとの戦いから無事帰るとき、わたしの家の戸口から迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を焼き尽くす献げ者といたします」。果たしてアンモン人はエフタの軍門に降り、勝利の喜びに満ちた凱旋を祝いエフタの家から出て来たのは、父の勝利を祝う実の一人娘でした。エフタは衣を引き裂きながら「取り返しがつかない」と嘆きます。しかし娘はその誓いを受け入れ、友とともに二ヶ月のあいだ山々をさまよい、父の命じるままにされたとのことです。

 アブラハムが息子イサクを神に献げる物語と根本から違うのは、アブラハムの場合、主なる神の命令に従ったに過ぎず、いわゆる人身御供を望まなかったのに対して、エフタは自ら神に誓い、その悲劇を自ら招いてしまったところにあります。イスラエルの民には戦いへの勝利は喜びでしたが、エフタは人として最も尊くかつ基となる家族を勝手に担保にし、その結果に衣を引き裂き涙するばかりでした。人の子イエスがこの物語を知らないはずはありません。人の立てる誓いは完全ではなく、時に互いの都合のかけひきでもあり、その陰で涙する者が必ずいるはずだとの理解。

 だからイエス・キリストは語るのです。「『天にかけて誓うな、天は神の玉座』。『地にかけて誓うな、地は神の足台』。『エルサレムにかけて誓うな、そこは大王の都』。『頭にかけて誓うな。髪の毛一本すら白くも黒くも出来ないから』。あなたがたは『然り』には『然り』、『否』には『否』とだけ言いなさい」。

 しかしこの破れにまみれた誓いよりも、「然り」には「然り」、「否」には「否」と答えるほうが、よほど困難な時と場合があります。何らかの力関係があったときに、本来は「否」と言うべきところを「然り」と答えてしまう。また反対に「然り」と言うべきところを「否」と答えてしまう。人の子イエスが身柄を拘束され、大祭司の家でと連れていかれる夜、鶏が三度鳴く前に、ペトロはその関わりを問われましたが「然り」と言うべきところを「否」と答えてしまうのです。思えば誓いに関しても、「否」か「然り」かどうかを答える場面にしても、わたしたちは十全に向きあうことなく、自分の身にその責任を負わずに、他人のせいや諸般の事情のせいにしてはいないでしょうか。ここにわたしたちが実際に身に帯びている罪そのものがあります。それは遺伝するものでもなく、因果応報でもありませんが、わたしたちが破れを抱えた人間であるその身の程を忘れると、それこそ取り返しのつかない過ちに繋がりかねません。

 しかし人の子イエスの声は、そのようなわたしたちに「もう一度やり直してご覧なさい」と静かに語りかけます。『マタイによる福音書』では、様々な過ちの結果自らを遠ざけていった弟子に向けて「ガリラヤへ行きなさい」と語りました。それこそ、救い主を前にして粉々に打ち砕かれた人々が、新たにイエス・キリストとの再会を果たす場所です。そしてその後には、キリストが自らを通して証しされた神の愛による希望がいつまでも消えずにわたしたちを照らしています。世にある責任をそれとして尊び担う中で、神の愛は時にはさわやかな風となって、わたしたちのいのちを潤してくださいます。神がお立てになった誓いはとこしえに立ちます。その誓いは決して揺るぐことはありません。