2024年11月7日木曜日

2024年 11月10日(日) 礼拝 説教

―降誕前 第7主日礼拝―
――幼児祝福式礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 
 

説教=「神の祝福につつまれるこどもたち」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』10 章 13 ~ 16 節
(新共同訳 新約 81頁)

讃美= 21-57,461,讃美ファイル 9,21-29(544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 「モブキャラ」という言葉があります。それは漫画やアニメーション、映画、コンピューターゲームなどに登場する、個々の名前が明かされない群衆を指します。演劇やミュージカルで同じような役割で登場するのは「アンサンブルキャスト」、映画では「エキストラ」と呼ばれます。演劇や映画でのキャストやエキストラの場合、指導の細やかな映画監督は「群衆一人ひとりにも表情があるのだから」とキャストにもエキストラにも演技を要求しますが、漫画やアニメ、ゲームの場合ではそのようには描かれないのが殆どです。

 それでは本日の『聖書』の箇所に描かれる、人の子イエスに触れていただくために、人々が連れてきたこどもたちとは、単に人の子イエスが神の子であると示すために描かれたモブキャラなのでしょうか。「連れてきた人々」も「連れられてきたこどもたち」もイエス・キリストと弟子のやりとりを際立たせるためのモブキャラではなさそうだという見地からいたしますと、興味深い発見があります。「人々」と示される人の群れも、「こどもたち」として表現される幼子たちも、それぞれの名前や生い立ちがあったはずです。しかし「人々」と「こどもたち」の間に血のつながりがあったかというと必ずしも書き手は記しません。ただし、人々と連れてこられたこどもたちの間には何らかのつながり、愛情があったことや、「人々」と呼ばれる大人には、ふと思い立ってこどもたちを人の子イエスのもとに連れてきた者もいれば、熟慮の末、悩んだ末にキリスト(救い主)と人々が噂するイエスのもとにこどもたちを連れてきた可能性があります。

 そのような思い詰めた顔もある大人を弟子は大勢の前で叱った、または面罵したのですから、弟子には許容できない振る舞いがあったのかもしれません。面罵とは尋常な対応ではありません。集まったのはどのようなこどもたちだったのでしょうか。その際、人の子イエスの時代、この福音書が記された背景には、現在のわたしたちには想像できない生活格差が横たわっていたとの事情を顧みますと一つの光景が瞼に浮かびます。

 現在、アフリカ大陸にはナイジェリア連邦共和国という国があります。ナイジェリアはアフリカ最大の原油最大国で、国のいたるところに原油のパイプラインが張り巡らされ他国へと販売されています。この際用いるパイプラインや石油掘削技術を提供するのはロイヤル・ダッチ、シェル、エクソン・モービルといった国際資本の石油メジャーで、その収益の殆どが都市部に暮らす人々、政府関係者の人々の財政基盤となります。

 しかし問題は正規の収益からあぶれる他なかった地方の村人や、もともと農業に従事していた人々の生計です。この人々の生計がどうなっているのかと申しますと、巨大なパイプラインに穴を開けて、ヤミで原油を精製し、破格の易さで人々に販売し収益を得ているのです。そしてパイプラインに穴をあける作業をしたり、ガソリンを精製したりする作業、またペットボトルにガソリンやオイルを詰める作業に従事しているのが、本来ならば教育を受けるべきこどもたちなのです。内戦中の国における少年兵の問題は人々の大きな関心事になりますが、このような危険かつ医学的にも大いに問題のある状況にあるこどもたちの話は国際連合でも話題として聞いたことがありません。もちろん精製した後の原油の残り滓であるタールはジャングルや河のあちこちに放置されますから生物はマングローブを始めとしてことごとく死に絶えていきます。不安定な農作物や狩猟による収入よりヤミ値でガソリンを販売した方が収入は落ち着き、また政府もこれを黙認しているところがあります。自然環境を保護するならば、どうやって人々の雇用を保障するのかと先進国が考えなくてはいけないところですが、石油メジャーのほうがナイジェリア連邦政府よりも力が強いのが、アフガニスタンとは事情が異なるところです。

 かつては石炭の粉塵まみれ、今では廃油まみれのこどもたちを人々が人の子イエスのもとに連れてきたどうなるか、わたしたちのもとに連れてきたらどうなるのか。わたしたちは大きなジレンマに立たされます。そしてその場合弟子が人々を面罵した事情も分からいではありません。けれどもイエス・キリストは弟子を諫め、こどもたちを「神の国を受けいれる人」として祝福されます。その子の身なりがどうであろうと関係なく抱擁するでしょう。福音書ではキリストのもとに集まってきた人々やこどもたちは決して「モブキャラ」ではないのです。

 現在わたしたちの国では、シングルマザーのお子さんで離婚された相手が異文化の方であり、日本語しか話せないという方々が想像以上に多くおられることを知っています。人の子イエスはその子たちの悲しみや痛みをすべてご存じです。本日は幼児祝福式を行います。こどもたちが主なる神の御手に置かれますように祈ります。