2024年6月13日木曜日

2024年 6月16日(日) 礼拝 説教

    聖霊降臨節第5主日礼拝― 

時間:10時30分~

 

説教=「マイム・マイムは『聖書』のことば」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』4章7〜15節
(新約聖書  169頁).

讃美=  500,21-474(280),21-28(545).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

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方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 人の子イエスの生活環境と申しますと単純に荒野や砂漠をイメージしがちですが、もともとはパレスチナのガリラヤ湖周辺は水に恵まれ、ヨルダン川一帯は今も緑に覆われています。しかし中東では概して空気は乾燥しており、ローマ帝国による度重なる土木建築で名だたる杉も切り倒され環境にじわじわと変化が生じます。極度に住居環境の変わった土地に暮らす人々は貴重な水資源を枯れかけた小川に頼るか、または井戸を掘るほかありません。井戸を掘って水が出れば人々は少なくとも水資源だけでなく衛生面も改善できます。人々は干魃の終わりの雨降りや井戸掘りの成功とともに「水だ、水だ」と喜びとともに踊りました。水とはヘブライ語では「マイム」。日本に伝わるフォークダンスの源「マイム・マイム」とはヘブライ人が生きるに必要な水資源を確保した喜びの舞でもありました。しかし掘り当てた井戸が民生用であり、その作業に従事した村人が額に汗を流して掘り当てたものであれば、その井戸の権利はその村に属します。ですからその井戸を他の村の者が勝手に用いることはできず、必ず当事者たる村人に許可を得なくてはなりません。

 本日の『聖書』の個所の前置きとして「イエスはユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった。それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのころである」と記されています。本日の箇所では、最も日照度の強い時間帯を迎える真只中に、疲労困憊となった旅人として、イエスはヤコブの井戸の近くに座り込んでいたこととなります。もし旅人が無断で井戸水を用いるところを村人に見つかったのであれば、場合によっては報いとして暴行を受けてもやむを得ません。アフガニスタンでの灌漑事業を成功に導いた中村哲医師が殺害された原因として、本来ならばパキスタンへと流れる川の一部の流れを変えたことで、アフガニスタンとは異なる水をめぐる地域利権マフィアの怒りを買ったとの話も耳にします。この時代と地域で水は石油に劣らない価値ある資源として今も見なされています。

 このような中、旅に疲れ果てたイエスは、サマリアの女性に水を乞います。「水を飲ませてください」。思うにその時代のユダヤ人はサマリア人を歴史的経緯や人種的偏見から「穢れた人々」と見下しており、その人々が関わる井戸もまた実行支配されていると見なされており、さらにサマリア人が用いる井戸の水は「穢れた水」として遠ざけられたはずです。しかしユダヤ人でもある人の子イエスは次のように懇願します。「水を飲ませてください」。この願いが実に稀であったのはサマリア人の女性の驚きに表れています。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女性のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」。一般にサマリア人はユダヤ人から蔑まれており、それはこの女性も分かっていました。しかし人の子であり旅人のイエスが見せたのは「乞い願う」という謙遜の態度でした。関わりをもたない、互いに無関係な暮らしをしているはずの人の子イエスは問いかけに「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたの生きた水を与えたことであろう」と答えます。当初女性は井戸を字義通りに受けとめ「ヤコブの井戸」の物語を語ります。ヤコブはサマリア人にもユダヤ人にも共通する先祖です。イエスが答えるには「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。今や疲れ切った旅人イエスは救い主イエス・キリストへと変貌しています。「主よ、渇くことがないように、またここにくみに来なくてもよいように、その水をください」と、願う側とその願いを聞き受ける者の立場が逆転しています。イエス・キリストの語る「泉」とは、どのような困難や荒廃した世にあっても決して渇くことのない瑞々しい心根であり、魂でした。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の得があろうか。自分のいのちを買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」と『マルコによる福音書』にはあります。誰からも軽蔑されている、または軽蔑している相手との関わりの再建は、新しい水の発見に勝る喜びと潤いがあります。サマリア人の女性の物語は『聖書』ではまだ続きます。しかし全ての恩讐を越えて、人の子イエスとサマリア人の女性とがお互いに「水を飲ませてください」「その水をください」と求め合っているところに、かつて「マイム・マイム」を踊った瑞々しい喜びを重ねることができようというものです。主に豊かな潤いを求めましょう。