2024年6月26日水曜日

2024年 6月30日(日) 礼拝 説教

      聖霊降臨節第7主日礼拝― 

時間:10時30分~

 

説教=「誰も退けず、神の祝福は等しく」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』4 章 46~54 節
(新約聖書  171頁).

讃美=  291,21-471(Ⅱ 164),21-28(545).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 福音書に記された人の子イエスのあゆみから『使徒言行録』に記された使徒たちの伝道のわざにいたるまで、影のようにつきまとう係累があります。それは「ヘロデ一族」です。クリスマス物語ではヘロデ大王がローマ帝国の後ろ盾のもと権力を振るい、占星術の学者たちから「ユダヤ人の王はどこにおられるのか」との問いかけに王権を否定されたと思い込み、ベツレヘムの二歳以下の男児を虐殺します。そしてエジプトへと家族ごと逃亡した父ヨセフが再びユダヤの地を踏んだとき、その地を支配していたのは息子ヘロデ・アルケラオス。支配が強引なため、ローマ帝国の総督からさえもその役を罷免されます。他方で人の子イエスが群衆と交わりを深めるなか、洗礼者ヨハネを捕らえ、首を刎ねる人物が「王」として称され記されます。『マルコによる福音書』の「ヘロデ・アンティパス」です。このほか『使徒言行録』12章、そして26章に描かれるヘロデ王、またアグリッパ王もみなこのヘロデ一族の係累です。いずれも民衆を虐げたり、神を讃えず自己礼賛に走ったため天使に撃ち倒されたり、またはパウロの弁明に反発したりと実に闇深く描かれていますが、この一族に連なるすべての人々が神の救いに洩れたり、人の子イエスから退けられたりしたのかとの問いもまた同時に生まれます。

 その問いかけに対して福音書は「事はそう単純ではない」と答えます。すなわち『ルカによる福音書』8章では人の子イエスと弟子たちに奉仕した女性の群れに「ヘロデの家令」つまり執事として働いていたクザの伴侶ヨハナを描きます。このヨハナという女性は、人の子イエスが十字架で処刑され、埋葬された墓地まで、イエスの母マリアとともに訪ねます。福音書は決してイエスの招きがその人の属性や関わる組織によって左右されるようには描きません。むしろそのようなしがらみに捕らわれた人々の心遣いをイエスはキリストとして感謝とともに受け容れ、ついには復活の出来事の目撃者の群れに加えます。

 本日の『聖書』で人の子イエスは婚宴の席に招かれたカナへと戻ります。その地からさらに東にあるカファルナウム。『マタイによる福音書』11章では「カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府まで落とされるのだ」と、その頑なさに「ソドムの方がまだましだ」とすら叱られるこの地には、ローマ帝国軍の駐屯地もあり、そのゆえに政治的な意味合いからヘロデ王の一族の息もかかっていたと考えられます。このグレーゾーンにある街を人の子イエスは叱りつけこそすれ、その地に暮らすアンティパス王の役人の申し出を決して否定いたしません。役人はガリラヤからカファルナウムまで遠出をして熱病に冒され、死に瀕した息子の癒しを乞い願います。自分のグレーゾーンにある立場をこの父親自ら分かっていたはずで「あなたがたは、しるしや不思議なわざを見なければ、決して信じない」とまで突き放されます。しかし役人は決して諦めずに「主よ、こどもが死なないうちに、おいでください」とすがりつきます。そのような父親の心根を見抜いたイエスは「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と語りかけ、この役人は「イエスの言われた言葉を信じた」とあります。彼は瀕死の息子の具合がよくなったから、イエスを信じたのではなく、対話の始まりの時点ですでに「主よ」と呼びかけ、その言葉を受け容れました。つまり「不思議なわざ」を見ずにイエス・キリストに委ねたのです。その回復のタイミングと癒しの事実を僕たちから聞きとり、家族全体がイエスを救い主だと信じたという物語の流れになっています。不信仰の土地だとされる場にあって、表向きはイエスを迫害する側の群れに実生活の根を下ろしながらも、この役人の家族は救われました。イエス・キリストの恵みが先んじ、その恵みに感謝し喜ぶ姿そのものが信仰であると考えられる所以です。

 顧みれば、わたしたちは福音書の執筆された時代には生きてはおりません。もっと時計の針の刻む時刻に追われ、一般では暮らしの裏づけを富や社会的立場にのみばかり求めるという世にあって、一度社会から抹殺されるならばスマートフォンはおろか預金通帳すら作れないという綱渡りの状態に置かれています。たとえ親族が犯罪の加害者になった場合、こどもは無関係だといくら呼ばわってもその声がかき消される「ソドムの方がまだましな」社会に暮らしています。だからこそイエス・キリストの言葉がもっと伝えられなければならず、そのわざもまた証しされなくてはならないのです。個人としてできるわざは限られてはいますが、プライドを神に委ねたその交わりが広まるならば、すべての人が世にありながらイエス・キリストの恵みを授かるものだと確信します。


2024年6月19日水曜日

2024年 6月23日(日) 礼拝 説教

    聖霊降臨節第6主日礼拝― 

時間:10時30分~



説教=「こんなはずではなかったが」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨナ書』3章6~10節
(旧約聖書  1447頁).

讃美=  74,21-204(54),21-28(545).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 イタリアのヴァチカン市国、システィーナ大聖堂には、ミケランジェロによる有名なフレスコ画があります。フレスコ画とは壁に漆喰を塗り、その漆喰がまだ生乾きの間に水または石灰水で溶いた顔料で描くというもので、やり直しが利かない反面、乾けば水に浸けても滲まず、保存に適しているとの特徴があります。大聖堂の祭壇には「最後の審判」が描かれますが、ちょうどその上に当たる天井には、預言者ヨナの物語が描かれます。現代人からすれば物語の最中、鯨に呑まれたように思える預言者ヨナですが、大聖堂の絵画ではスズキのお化けのような魚から吐き出された人物として描かれます。しかし『新共同訳』では四頁に満たない、『旧約聖書』の章立てでも四章に過ぎない預言者ヨナの物語が、大聖堂で「最後の審判」と関連づけられるのは一体なぜでしょうか。

 みなさまにはぜひお読みいただきたいのですが、預言者ヨナはエリヤ、イザヤやエレミヤといった『旧約聖書』の典型となる預言者とはまったく生き方が異なります。エリヤもイザヤもエレミヤも、神の招きに従ってイスラエルの民の過ちや王の判断の間違いを弾劾する一方で虐げられた人々を励まし癒やします。しかしヨナの場合は「大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている」との神の呼びかけから逃れようと悪戦苦闘するところから物語が始まります。ニネベの街はイスラエルの歴史の中ではバビロン捕囚という『旧約聖書』執筆のきっかけとなる大事件に先んじて、忘れられない出来事を思い起こさせます。それはアッシリアという大帝国に国土の大部分が飲み込まれ、人々は大殺戮と狼藉を受けた結果、後に「サマリア人」と呼ばれ、ユダヤの民から差別される人々にも繋がる傷となった出来事です。ニネベはこの忌まわしい国の首都でした。言い方を変えれば『創世記』で神に逆らい滅ぼされた都市ソドムよりも罪深いとまで見なされて当然の都であり、そこに暮らす人々のもとに派遣されるなど「あり得ない!」。これがヨナの本心であったことでしょう。

 しかしそのようなヨナの本心に反して、神はヨナの乗った船を嵐に遭わせ、うろたえる船員へヨナ自らに「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい」と言わせた結果、ヨナは荒れ狂う海へと投げ込まれてしまいます。船員は「ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから」とヨナの犠牲を通していつの間にか主なる神の計らいに導かれていきます。「無実の者」との言葉は『新約聖書』では人の子イエスの生涯を思い起こさせます。

 海に投げ込まれたヨナは先ほど申しあげたように巨大な魚に飲み込まれ、三日三晩自らの意志による行動を中断しなくてはなりません。その後ヨナは陸地に吐き出され、「忌まわしい都」ニネベに神の審判を告げ知らせることとなります。都を一回りするのにも三日かかりました。身分の格差を問わず王侯貴族庶民全てにヨナの呼び声は響き渡り、人々は悔い改め、都は滅亡を免れます。しかしこれがヨナには気に入らないのです。「わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみに富み給う神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。主よ、どうか今、わたしの命をとってください。生きているよりも死ぬ方がましです」と、希死念慮むきだしで怒り狂います。神に向かって「死ぬ方がまし」「死にたいくらいだ」と三度も叫ぶ預言者は分厚い『聖書』の中でもヨナくらいしかいません。しかし主なる神はそのようなヨナを宥めて物語は終ります。ヨナには「こんなはずではなかった」の連続が物語に集約されていると申せます。

 「こんなはずではなかった」とつぶやきつつ、我知らず神の救いの担い手となり、気がついたらかつて敵対していた相手でさえ主なる神にひれ伏すにいたった物語。実はこの物語には個々の恩讐の壁を越えて働く神の愛が主題となっています。人の子イエスによる「敵を愛しなさい」との教えとしても響きます。何も気負う必要はなく、気づけば神の救いを讃美する喜びが誰かのもとに届いていた。もしわたしたちがイエス・キリストを見つめ続けるならば、わたしたちもまたヨナのように「こんなはずではなかった」と思いつつも、出会いの中で誰かの行く道を遮りながら神の恵みへと向けているかもしれません。そこでは神へのつぶやきすら祝福されています。

 本日は沖縄の地上戦で組織的戦闘が終わったとされる日でもあります。現地の方々の生の声によりますと、その後の戦いの方が酷かったと申します。沖縄には内地とは異なる熱心な教会が数多あり、沖縄教区は日本基督教団の「神の櫓での見張り」の役目を担っています。「こんなはずではなかった」とのつぶやきに、神の恵みが隠されています。『ヨナ書』に関心が寄せられるのも、そのメッセージを放ち続けているからに他なりません。

2024年6月13日木曜日

2024年 6月16日(日) 礼拝 説教

    聖霊降臨節第5主日礼拝― 

時間:10時30分~

 

説教=「マイム・マイムは『聖書』のことば」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』4章7〜15節
(新約聖書  169頁).

讃美=  500,21-474(280),21-28(545).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 人の子イエスの生活環境と申しますと単純に荒野や砂漠をイメージしがちですが、もともとはパレスチナのガリラヤ湖周辺は水に恵まれ、ヨルダン川一帯は今も緑に覆われています。しかし中東では概して空気は乾燥しており、ローマ帝国による度重なる土木建築で名だたる杉も切り倒され環境にじわじわと変化が生じます。極度に住居環境の変わった土地に暮らす人々は貴重な水資源を枯れかけた小川に頼るか、または井戸を掘るほかありません。井戸を掘って水が出れば人々は少なくとも水資源だけでなく衛生面も改善できます。人々は干魃の終わりの雨降りや井戸掘りの成功とともに「水だ、水だ」と喜びとともに踊りました。水とはヘブライ語では「マイム」。日本に伝わるフォークダンスの源「マイム・マイム」とはヘブライ人が生きるに必要な水資源を確保した喜びの舞でもありました。しかし掘り当てた井戸が民生用であり、その作業に従事した村人が額に汗を流して掘り当てたものであれば、その井戸の権利はその村に属します。ですからその井戸を他の村の者が勝手に用いることはできず、必ず当事者たる村人に許可を得なくてはなりません。

 本日の『聖書』の個所の前置きとして「イエスはユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった。それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのころである」と記されています。本日の箇所では、最も日照度の強い時間帯を迎える真只中に、疲労困憊となった旅人として、イエスはヤコブの井戸の近くに座り込んでいたこととなります。もし旅人が無断で井戸水を用いるところを村人に見つかったのであれば、場合によっては報いとして暴行を受けてもやむを得ません。アフガニスタンでの灌漑事業を成功に導いた中村哲医師が殺害された原因として、本来ならばパキスタンへと流れる川の一部の流れを変えたことで、アフガニスタンとは異なる水をめぐる地域利権マフィアの怒りを買ったとの話も耳にします。この時代と地域で水は石油に劣らない価値ある資源として今も見なされています。

 このような中、旅に疲れ果てたイエスは、サマリアの女性に水を乞います。「水を飲ませてください」。思うにその時代のユダヤ人はサマリア人を歴史的経緯や人種的偏見から「穢れた人々」と見下しており、その人々が関わる井戸もまた実行支配されていると見なされており、さらにサマリア人が用いる井戸の水は「穢れた水」として遠ざけられたはずです。しかしユダヤ人でもある人の子イエスは次のように懇願します。「水を飲ませてください」。この願いが実に稀であったのはサマリア人の女性の驚きに表れています。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女性のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」。一般にサマリア人はユダヤ人から蔑まれており、それはこの女性も分かっていました。しかし人の子であり旅人のイエスが見せたのは「乞い願う」という謙遜の態度でした。関わりをもたない、互いに無関係な暮らしをしているはずの人の子イエスは問いかけに「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたの生きた水を与えたことであろう」と答えます。当初女性は井戸を字義通りに受けとめ「ヤコブの井戸」の物語を語ります。ヤコブはサマリア人にもユダヤ人にも共通する先祖です。イエスが答えるには「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。今や疲れ切った旅人イエスは救い主イエス・キリストへと変貌しています。「主よ、渇くことがないように、またここにくみに来なくてもよいように、その水をください」と、願う側とその願いを聞き受ける者の立場が逆転しています。イエス・キリストの語る「泉」とは、どのような困難や荒廃した世にあっても決して渇くことのない瑞々しい心根であり、魂でした。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の得があろうか。自分のいのちを買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」と『マルコによる福音書』にはあります。誰からも軽蔑されている、または軽蔑している相手との関わりの再建は、新しい水の発見に勝る喜びと潤いがあります。サマリア人の女性の物語は『聖書』ではまだ続きます。しかし全ての恩讐を越えて、人の子イエスとサマリア人の女性とがお互いに「水を飲ませてください」「その水をください」と求め合っているところに、かつて「マイム・マイム」を踊った瑞々しい喜びを重ねることができようというものです。主に豊かな潤いを求めましょう。


2024年6月6日木曜日

2024年 6月9日(日) 礼拝 説教

  ―聖霊降臨節第4主日礼拝― 

時間:10時30分~



説教=「野の花っていろいろあるよね」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』6 章 28~30 節
(新約聖書  10頁).

讃美=  ※改訂版こどもさんびか:132,106,58.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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【説教要旨】
  雨のよく降る季節、梅雨の季節となりました。この季節はとっても蒸し暑くてわたしたちにはしんどい季節かもしれません。けれどもいきものには身体を大きくするのに大切な時期になります。田んぼにはそろそろ稲の苗が植えられ、岸を歩けばカエルが鳴いています。場所によっては夜、蛍が光を瞬かせて飛んでいます。もちろん水辺は足が濡れて滑って落ちては危ないので、一人で行かないでくださいね。またお家の人と一緒でも、悪い虫やマムシ、ばい菌から足を守るためにも長靴を必ず履いてください。

 ところで最近、みなさんが見慣れた桜の木が電気のこぎりでバリバリと切られているところを見かけます。みなさんが入園・進級・入学するときにピンク色の花を咲かせてくれる桜が悲鳴をあげているようでもあり悲しくなるのですが、実はこれには理由があります。切られている桜はソメイヨシノという名前です。ソメイヨシノは種から大きくなりません。挿し木といって、小さな枝を栄養のある土に差し込んで、そこから白く細い根っこを出して大きくなったら植木屋さんが育てます。本当ならおしべの花粉とめしべがくっついて種ができ、それが地面に落ちて生えてくるはずなのですが、ソメイヨシノはそのようにはなりません。どうしてでしょうか。

 それは100年と少し前にどうすればきれいな桜を作れるかと日本全国の野に咲く桜を掛け合わせて人間が作った桜だからです。だから病気や害虫に弱く、80年ほど経つと倒れてしまうのが殆どです。だから古い木を切り倒して新しいソメイヨシノを植えることになります。心が痛みます。

 イエス様がわたしたちの世におられたころ、ソメイヨシノは地上にはありませんでした。でも、ひょっとしたら今ではなくなってしまったか、見つけたら「すごいなあ」と言われるようなお花も咲いていたかも知れません。もちろん人がつくったお花ではありませんからお花屋さんで見るようなお花ではなかったでしょう。けれどもイエス様は野に咲くお花をお示しになって「王様より美しく立派だ」と言うのです。なぜでしょうか。

 王様は人間でありながら、普通の人々よりもひとつ高いところに立って話し合いをして国の人々に指図をします。それが神様の願いに適っていればよいのですが、歳をとるにつれてその力が自分のものだと勘違いする王様も『聖書』には登場します。自然から充分に与えられている食べものや着るものにも文句を言ったりするようになります。けれども野に咲く花は地面にしっかり根を張って、神様の考え通りに茎や葉を広げて花を咲かせます。何度も何度も刈り取ってもまた生えてくる強さももっています。

 最近では外国からきた荷物にくっついた種がやってきて、どんどん増えていくお花もあり、人間はそれを邪魔だと言って刈り取ろうとしますがなかなか思うようにはいきません。その種を運んできたのは人間その人だということを忘れてしまうとおかしなことになります。薬を使って枯らしてしまえとなれば、逆にその薬で人間の身体が痛めつけられます。神様がお造りになったお花はそれほどまでに強いのです。いつの時代にも、動物の身体や鳥の糞、人間の荷物に種がくっついてやってきたお花はあるはずです。もちろん野の花もいろいろと変わっていきます。野の花の広がりは、わたしたちの「こうなるはずだ」との思いを大きく超えて拡がっていきます。

 今日は雑草だと思われて抜かれては棄てられていたお花が、何年かしたら大切なお花として花束にされるかもしれません。逆に言うと、人間の扱いは時代によって変わりますが、イエス様の時代のお花は今の時代でも踏まれても抜かれても生えてくるのです。タンポポのように種に綿毛を着させて、空を飛んで広がるお花もあります。お空の風に吹かれて、壁や海を越えていろいろなところに届きます。みんなはどんなお花になりたいですか。ヒマワリみたいな、暑さに負けないお花になりたいですか。アジサイのように、カタツムリの居場所になって、人々の心を落ち着かせるお花になりたいですか。それとも、シラユリの花のように、悲しむ人の涙をそっとうけとめられるお花になりたいですか。どんなお花も神様は大切にしてくださいますよ。