2023年9月6日水曜日

2023年 9月10日(日) 礼拝 説教

   ー聖霊降臨節第16主日礼拝 ー

時間:10時30分~



説教=「一心不乱にあなたを愛する神」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』14 章 25~33 節
(新約聖書  137頁).

讃美=Ⅱ167,420,540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
  「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないならば、わたしの弟子ではあり得ない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、わたしにふさわしくない」。一緒についていこうとした大勢の群衆に向けて、人の子イエスはこのように語りかけます。福音書のすべての物語からこの言葉だけをきりとって理解するならば、すべての人間関係を否定してでも、イエス・キリストに従わなくてはならないという理解すら生まれます。事実そのような呼びかけに応え、すべての人間関係を絶ち切って教会の交わりに加わらなくてはならないと誤解されて、この箇所が理解された時に、『聖書』を味わう一人ひとりに大きな圧力をもたらす、または実際に家族との関わりを絶って教会に集うという、見方によってはカルト化した集団さえもたらすリスクをはらんでまいりました。しかし『聖書』という書物はわたしたちの身近な人間関係を破壊するような生き方や、画一化された生活の枠というものをわたしたちに決して求めてはいません。例えば『ルカによる福音書』より前に記された『マルコによる福音書』1章29節では、すべてを捨てて従ってきたはずのイエスの筆頭弟子とされるシモン・ペトロの姑のもとへイエスはまいります。姑は熱を出して寝込んでいたのですが、人の子イエスはこの熱病を癒します。もしイエス・キリストがわたしたちに出家のような生き方を求めているとするならば、このような記事は記されないと思われます。どだい、家族を捨ててキリストに従ったとの思いから弟子たちの間に生まれたのは「誰がイエスの次に偉いのか」という歪んだ傲慢さであり、何かを斬り捨てようとも、より「キリストへのふさわしくなさ」が際立つだけであったというのが福音書の物語の伝えるところでした。

 それは先ほどの箇所の後半にも読みとれるところです。ひとつには「塔を建てようとする者」、もうひとつには「戦の和睦の話」の譬えです。高い塔を建設する場合には緻密な計算が必要ですが、人の子イエスが主題とするのは塔の建設に必要な経費、すなわち予算です。予算を綿密に練らないことには、土台を築くだけに終わり、人々から嘲りを受けるだろうという話。これは、キリストに従うという道には祈りの中での熟慮というものが必要であり、衝動的なものであってはならないとの誡めが隠されています。人の欲求によるのではなく、キリストに従うというわざは神の愛との出会いと招きに拠るものであることがこの箇所では強調されています。人の思いのみによるあゆみの脆さは、何よりもイエスの弟子たちが示しています。

 第二に示された「戦の和睦の話」からは、極めて冷静な人の子イエスの現実認識が窺えます。二万の軍隊が押し寄せるに際して、こちらには一万の軍勢しかない。その場合、どうすればよいのかを「腰を据えて」、つまり冷静になり、その後の行く末も含めて王は考えるものだ。もし敵わないと判断したならば、犠牲を避けるために使節を送って和睦を求めるだろうという話です。

 この二つの譬え話に示されている事柄とは、その人自らの衝動的な服従の誡め、そしてそのままでは争いにいたるはずの相手との和解を、イエス・キリストは自らの服従への道筋として捉えているというところです。キリストを基として生きる生活は、決して今ある暮らしの否定にはただちには繋がりません。DV問題や家族間の問題の解決は個人の意志としての信仰の問題というよりはその人自らの暮しや社会全体の問題であり、場合によれば裁判所という司法機関や警察という行政機関の発動をも必要とします。むしろその結果暮らしや心に刻まれた爪痕が何をもたらすのかとキリストに問いかけ、癒しを乞い願う中で、キリストに従う道が拓かれてまいります。関係者との和解の問題のみならず、自らの肯定しがたい爪痕との和解がキリストにおいて起きるとき、その人は赦され、新たな「やり直し」の時を備えられてまいります。その赦しのために神は、髪を振り乱してわが子のために奔走する母親のように、わが身を省みずにその人に愛をそそいでまいります。まさに「一心不乱」という言葉があてはまるありようです。

 このメッセージを聞いたローマの市民たちは、果たして何を思ったことでしょうか。『ルカによる福音書』は、身分の高い役人に献呈された福音書という一面ももっています。土木建築はローマ帝国に地中海世界を網羅する物流のネットワークをもたらしました。また現代にいたるまで数々の建築も遺されています。他方で武力によって帝国の意志に反する勢力を徹底的に潰すという仕方で「ローマの平和」を実現しました。イエス・キリストの譬えは、そのような人々の現実を否定するのではなく、まず自らの足下を指差し、建築を依頼された者の暮しの重圧と、戦の中で流血を可能な限りに避けるために智恵を絞る王を引き合いに出しています。いずれの判断も、自らの保身や立場を考えていては、成し遂げられません。そのわざの途方もない重圧を振り向けられたとき、自らの力の限界を悟り、キリストに根を下ろした暮らしを選ぶほかはなくなります。追いかけてくる神の力に、イエス・キリストに依り頼むことによってすべてを委ねるのです。一心不乱にわたしたちを愛する神に身を委ね、神の智恵を授かりたいと願います。