2023年2月8日水曜日

2023年2月12日(日) 礼拝 説教

  ―降誕節第8主日礼拝―

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「ゆるしに秘められた神の力」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』5 章 17~26 節
(新約聖書  110頁).

讃美=234 A,269,539.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 深夜から未明にかけて響く、救急車のサイレンを聞くと、目がさえて眠れなくなるときがあります。厳冬期から春先にかけて、循環器系統に病変がなかったかとしばらく目を覚まし、電話が鳴らなければ安心して眠りに就くという季節の最中です。現代では医学や医療が進歩し、その後のリハビリなども含めて後遺症は以前よりは軽度となったとは申しますが、それでも当事者からすればそれまでのように身の動きがとれなくなります。辛くないはずがありません。言わんや、日々の糧を得るため今以上に身体を用いなくてはならなかった福音書の描く世界で、今で言うところの「適切な医療措置」は実に困難を極めていたことでしょう。

 人の子イエスの癒しのわざを耳にして「ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレム」からその時代のユダヤ教の指導者層、つまりファリサイ派や律法の教師の検分を受けることとなります。しかしわたしたちの瞼には、そのような冷たい眼差しは一顧にせず、ひたすら病人の癒しを行う人の子イエスの姿が浮かびます。その時代のユダヤ教の理解では「病」とはモーセの誡めから隔たったところに身を置くことにより罹患するものであり「穢れ」でもありました。そしてそれは共同体からの排除という孤立を伴うものであり、家族や親族との交わりでさえ損ないかねない刺として、人々を苛んできました。その痛みを人の子イエスは分かちあい、癒し、集う人々に交わりの回復をもたらしていました。

 そのような中、ある男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうといたします。脳の重度の機能障害を示す中風患いの人は、決して万全とはいえないどころか、その時代の医療をめぐる諸事情の中で、おそらくはイエス・キリストのあゆみを風の便りに聞いて、遠路運ばれてきたこととなります。近場に暮す人であれば、人垣に苛まれることもなく癒されたことでしょうに、人々は無情にも自らの癒やしに精一杯で床に運ばれてきた、身動きのとれない病の人には無関心です。残念ではありますが、この癒しの場所にも治療の優先順位と申しましょうか、「癒しのトリアージ」を受けてしまったのです。「床」とありますが、実際はもっと素朴な戸板に寝かされて運ばれてきた、というのが精一杯ではなかったかと思われます。一瞥されながら「この人が癒されたところで何ができよう」との心無い眼差しも注がれていたかも知れません。

 しかしこの人は決して一人ではありませんでした。この中風患いの人を戸板に乗せて運んできた、少なくとも四人の男性がいます。「何とかしてこの人垣を乗り越えなければ」との決意のもと、癒しが行われている家屋にのぼり、その天井を剥がして戸板ごと吊り下ろすという行動に出ます。紙芝居や絵本では感動的な場面かもしれませんが、その場に居合わせた人々からは異様に映り、さまざまな咎め立てや不平が出たとしても不思議ではありません。しかし男性たちには、ここまで来て引き下がりはしませんでした。何が何でも人の子イエスに癒してもらわなくてはこれまでの労は水泡に帰してしまいます。どんな侮辱も罵声も男性には耳に入りません。ただ目指すのは今そこにいるイエス・キリストの姿。このチャンスを前にして男性らは引き下がりませんでした。

 主イエスが観たのは戸板に寝かされ吊り下ろされた患者の姿だけではありません。「その人たちの信仰」、つまり懸命に縄を吊り下ろしている人々も含めてキリストは「人よ、あなたの罪は赦された」と伝えます。戸惑うファリサイ派や律法学者。そしてわたしたちもまた戸惑います。「『あなたの罪は赦された』と言うのと『起きて歩け』と言うのとどちらが易しいか、とあるからです。なぜ主イエスはこのように語られたのでしょうか。その解き明かしの鍵は『ルカによる福音書』17章20節にあります。ファリサイ派の問いに、イエス・キリストは答えます。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」。この箇所で注目すべきはイエスを理解するためにではなく、どちらかと言えば詰問しに訪れたようなファリサイ派にさえイエス・キリストはこのように答えているのです。戸板に寝かされた中風患いの人物をただ見捨てなかっただけでなく、その治療のために時と労力を献げた男性をも含めた交わりをしっかり受けいれたキリスト。この箇所には、神の国のモデルを問う初代教会の声も響きます。これを「赦し」と言わずして何と表現するのでしょうか。

 日本社会の常として「人に迷惑をかけないようにして生きる」というあり方があります。しかしこの社会通念は自己責任論に進展する危うさがあります。想定外の出来事や齢の積み重ねに従って、わたしたちには「迷惑をかけないで生きる」のが実に困難だと実感します。本当のところ迷惑をかけずにはおれません。しかし「迷惑をかけない」との言葉に潜む残酷さや傲慢さを、イエス・キリストは神の愛による、そして祈りによる「赦し」「受け入れる」わざによって打ち砕き、病を癒されました。知られざる神の愛の輝きがあります。仲間の労によって、イエス・キリストに癒された中風患いの無名の人は「寝ていた台を取りあげ、神を讃美しながら」家に帰ったとあります。時に迷惑をかけあい生きるわたしたち。神の恵みへの感謝の応えとして一歩を踏み出しましょう。