2022年12月15日木曜日

2022年12月18日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

 ―待降節第4主日礼拝―

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 



説教=「おめでとうマリア」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』1章 26~38 節
(新約聖書 100 頁).

讃美=Ⅱ 218,102,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 祭司ザカリアと伴侶エリサベトに洗礼者ヨハネの懐妊を伝え、そしてガリラヤの町に暮すマリアを訪ねる天使ガブリエル。天使ガブリエルは『ルカによる福音書』だけに描かれる御使いであり、「クリスマス物語」で驚きに満ちた出来事を記す個々の物語を自由に飛び回っては結びつけていくという特別な役目を担っています。

 しかし天使ガブリエルに出会った人々はことごとく決してあるはずのない出来事に巻き込まれていきます。それは究極的には喜びの光に包まれてまいりますが、その道筋では苦悩したり、祭司ザカリアにあっては、祭司に必要な言葉さえ一旦は奪われたりするという危機にさらします。ザカリアには天使ガブリエルとの出会いは不安に留まらず、恐怖の念に襲われるという背筋の凍るような出来事で、その報せの内容が何であれ、まずは拒絶するほかに道がありません。その一方、今日の暦でいうところの半年後にガブリエルはマリアのもとに現われ「おめでとう、恵まれた方、主があなたとともにおられる」と本日の出会いの箇所にあたっても祝福の言葉から始めます。

 天使ガブリエルがどのように描かれるかは、わたしたちはあくまで『聖書』という「書物としての御言葉」を通してその経緯(いきさつ)をたどっていきます。もちろん、この福音書の箇所は物語としても味わえます。しかし『新約聖書』で描かれる登場人物一人ひとりにおきましては、その出会いも祝福もあまりにも一方的で唐突すぎ、ただただ驚くほかないという一面が絶えずついてまわります。しかしザカリアとは異なり、本日の箇所でのマリアは、ガブリエルの言葉に戸惑い「いったいこの挨拶は何のことかと考えこんだ」とあるだけなのです。年齢からすれば今でいうところの中高生の域を出ないはずのマリアは、ガブリエルと正面切って語り合うという点ではザカリアとは異なる肝の太さ、胆力を授けられています。考え込むマリアにガブリエルは語り続けます。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」。この「受胎告知」ではイスラエルの民の歴史に基づくメシア理解が言い表されますが、この宣言に対してマリアは実にシンプルかつ重要な問いかけをいたします。「どうして、そのようなことがあり得ましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。「わたしは男の人を知らない」という一文が、エリサベトとマリアとの決定的な違いを示すだけでなく、クリスマス物語の最大の謎だと、あらゆる興味本位の詮索を差し引いても言うことができるでしょう。

 ところで、『マタイによる福音書』1章18~19節には「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」とあります。これはヨセフが世間体を気にして縁を切ろうとしたのではなくて、その時代のユダヤ教の誡めにあって、マリアは許嫁の身でありながら妊娠してしまったという理由から、他の男性と関わりをももち、その結果死罪を言い渡されて石打の刑に処せられてもおかしくないとの理解があったとされています。『マタイによる福音書』ではヨセフの目線から描かれているといってもよいかもしれませんが、マリアと身ごもった男の子を助けるためには離縁して、身ごもらせた別の男性と一緒になるという道を苦悩しながらも考えるところにその特質があります。しかし『ルカによる福音書』ではそのような苦悩はザカリアが引き受けます。ガブリエルはただただ祝福を告げるだけです。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」。その点ではガブリエルは徹底しており、マリアも「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」と喜びのうちに返事をいたします。そしてガブリエルはマリアのもとを去り、マリアはエリザベトのもとを訪ねていきます。

 天使ガブリエルの祝福は、これまでの倣いというもの、伝統と呼ばれるものを革命的な仕方で新たにするだけでなく、今わたしたちが常識であるとして捕らわれている軛から解き放ちます。とりわけ「処女懐胎」という言葉が陳腐化または荒唐無稽だと見なす考えが当時も今も支配的な中で、この物語は救い主もまた、いのちとは本来は神から宿される、神秘に満ちたものだとの確信を新たにさせます。やがてマリアは夫ヨセフとともに嬰児イエスを抱えてエルサレムの神殿を詣でた折、老いた律法学者のシメオンから「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」とイエスの十字架での殺害預言を報らされます。それでも後に齢を重ねたマリアは、イエスの復活を二人の御使いから聴き、弟子に伝えるとの役目を新たに授かります。神が授けたいのちの勝利を、わが子の復活から確信するあり方。それがマリアという女性の生涯を貫いています。「お言葉どおりになりますように」と祈る者となりましょう。