2022年5月19日木曜日

2022年5月22日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

―復活節第6主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂


説教=「キリストの慈しみにまもられて」 
稲山聖修牧師

聖書=ヨハネによる福音書 16 章 16~22 節. 
(新約聖書 200 頁)

讃美= 239(1.3.4),166(1.2.3),542.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 コロナ禍の中で急速に発達し、そして今ではなくてはならないインフラとして浸透しているのがリモートワークと、キャッシュレス決済というしくみです。正確にはポイントカード制度も含めてコロナ禍以前から技術はありましたが、非接触型業務が感染対策として行政からも企業からも奨められた結果、コンピューター、タブレットパソコン、スマートフォン、電子書籍があって当然のものとなりました。確かに個人的にも立ち入るような、またはトップシークレットの話し合いであれば、外部から不正に情報を入手される場合もありますので直接の会議に出向かなくてはなりませんが、学校の講義や職員会議の全体会といった程度であるならば、充分リモートワークで対応できます。対人関係がどちらかといえば苦手だという方には、これはむしろ朗報かも知れませんし、教会によっては「聖書研究会」や「祈祷会」もすべてリモートで行うところも増えています。新進気鋭の牧師であるほど、そのような選択肢も含めて創意工夫を重ねて、臨機応変な牧会に励んでいるとのこと、時代遅れの牧者からすれば頼もしい限りです。
 しかしその反面、そのように外出の機会が減る中で、足の指先が地面に着かない「浮き指」のこどもたちが増えていると申します。運動不足に伴う足指の筋力低下が原因だとされていますが、コロナ禍で外出の機会が減り、放置すれば腰痛や歩行障がいにつながる恐れから、さまざまな対策が講じられ始めたと申します。「最近のこどもたちの筋力の低下は著しい。このままでは多くの人が、齢を重ねたときに深刻な腰痛や関節の変形を抱えることになる」と教会員の橋間隆子さんのご子息・誠さんは危機感をあらわにされています。浮き指の原因にはサイズの合っていない靴を履く、幼少期の歩行距離が短い、ゲームのしすぎなどによる長時間の前傾姿勢を指摘されています。これは『産経新聞』5月10日夕刊の記事によります。
 仮に新型感染症対策の規制緩和が行われたとしても様々な後遺症が健康にも社会にも残されます。たとえ会社がこの危機を免れたとしても、長い時間をかけて身につけたスキルを用いられないところに配置換えされるという話は、会社そのものの解雇と並んで聞き及ぶところであり、生活の再建にあたっては長い時間を必要とします。ご高齢の方々のお身体の衰弱も無視できない課題です。就職先の内定の取り消しは日常的に耳にするところであり、決してよく聞く話として軽んじるわけにはいきません。郵便局の配送も感染症対策のために遅くなり、直接小銭に触れるという行為にも手数料を課金し、歯止めをかけるしくみがあちこちで生まれています。そのような状況の中で、わたしたちはようやく、自分たちの暮らしが準戦時体制にあったのだとようやく語りうるようになりました。問題の渦中にあってはそのような話すら耳を塞ぎたくなるのが人情というものです。
 しかし本日の箇所は、そのようなわたしたちの日常の課題以上の重荷である、世人の罪を背負ったイエス・キリストが弟子を前にして最後の教え、いわば遺言を語るという場面です。この箇所では「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」との言葉をめぐって弟子の間に混乱が生じます。この混乱の中で「女性はこどもを授かるとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかしこどもが生まれると、一人の人間が生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去るものはいない」。まとめれば、この箇所ではキリストの十字架での死と復活に留まらず、キリストの昇天、そして神の愛が遍く世に伝えられた後に訪れる終末のしるしとしての再臨のイエス・キリストとの出会いという福音書を貫く歴史の流れが書き記されていることとなります。
 それでは直接イエス・キリストとまみえてはいない、しかし世の終わりも先送りされているようにすら思える今、イエス・キリストはどのようにわたしたちと関わってくださっているというのでしょうか。鼻で息する者、すなわち人の姿しか見えない、見えるものしか受け入れられない場合、教会は他の集まりと同じような集いに過ぎない、いやその方が、人の思いに適う目的に特化できるので、利用しやすく公告も出しやすいとも言えます。しかしながら、ただの人の集りとは教会は決定的に一線を画するところがあります。それは、神の慈しみによって世界に平和が訪れるそのときまで、キリストが示した神の愛の力がこの交わりには注がれ続けている、聖霊が注がれ続けられているという一点です。この聖霊の力によってわたしたちは神を讃え、キリストの姿を心に焼きつけ、世にある思い煩いから自由にされるのであります。それだけではありません。思い煩いから自由にされたわたしたちは、聖霊の力によって聖書の言葉に従い、互いに傷つけることもなく、排除しようと思わず、互いの多様さを認め、新進気鋭の人々の示す変化を受け入れ、時代の負の遺産に苦しむ人々を、御心ならば支えようと求めることができるのです。眼差しは内向きにではなく、聖書に記されたキリストを通して外へと向かいます。これは神の絶対の救いと約束であり、教会が最優先とすべき事柄です。