2021年5月20日木曜日

2021年5月23日(日) 説教(在宅礼拝となります。ライブ中継を行います。当日礼拝堂での対面礼拝はございません。)

「くすぶる灯心は消えず」
説教:稲山聖修牧師
聖書:『使徒言行録』2章1~11節(新約聖書215頁)
讃美歌:249,183,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。
ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類(動画事前録画版、ライブ中継動画版)ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
中継ライブ礼拝を献げます。

ライブ中継のリンクは、
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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 ベツレヘムという小さな村の家畜小屋に宿された雫、一滴。この雫を通して主なる神は生きとし生ける者すべてに決定的な道筋で自らの愛をお示しになりました。その愛は世にあって傲慢な者に及んだのではなく、わたしたちがどれほど調べたところで決して明るみには出ない無名の人々、とくにその時代の公文書にも記されないところの、貧しさにある人、病に罹った人々や社会から遠ざけられていた人々を真っ先に活かすところとなりました。この雫とは他ならないイエス・キリストであります。
 しかしながらこの潤いは、最も近いところにいたはずの弟子たちには理解の超えたところにあり、人の子イエスに対立するところの祭司長や律法学者といった権力に近い側に立つ人々だけでなく、弟子の中にもその流れから逃れようとする者、流れをせき止めようとする者、流れを見誤る者も多くありました。やがて弟子はイエスの教えにも十字架と復活の出来事にも躓いていきます。しかしそのような躓きをものともせず、慈しみでつつみ、キリストは弟子たちを祝福しながら父なる神のもとへと昇っていったのでした。
 この祝福に応えるようにして、今度は弟子に神の愛の力が豊かに注がれます。「五旬祭の日」。過越の祭から五〇日を経て祝われるこの祭で、モーセがシナイ山で十戒を授かった記念をエルサレムでは祝いました。この戒めの完成としてイエス・キリストは世に遣わされ、救い主としてのわざを全うされました。次は弟子の番です。「一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれわかれに現れ、一人ひとりの上にとどまった」。神の恵みは泉や水という言葉に表されもしますが、『使徒言行録』ではキリストの祝福を通して弟子に注がれた神の愛の力を「炎」に重ねて伝えようとします。炎は冷めきった料理を温めるだけでなく、感染症の危険から人々を遠ざけます。燃えさかる炭火に鉄をかざし叩き続ければ不純物は取り除かれ、次第に硬さを増していきます。暗闇を照らし生きる上で必要な交わりをもたらしながらも、人は炎をそのままのかたちで手にすることはできません。この力に押し出されるようにして、いよいよ教会の導き役としての使徒が働きを始めます。福音の世界宣教が始まります。
 五旬祭を祝うためにエルサレムを訪れたユダヤ人たちの出身はさまざまでした。パルティア、メディア、エラム。メソポタミア、ユダヤ、カパドキア。ポントス、アジア、フリギア。パンフィリア、エジプト、リビア地方、ローマから来た者、もともとユダヤ人であった者、異邦人からユダヤ教徒になった者、クレタ島やアラビアに暮らす者。ローマ帝国の支配圏に留まらず、さらに広範な地域からやってきたユダヤ教徒の群れでエルサレムは賑わい豊かでした。この場に集う人々には、ガリラヤなどは取るに足らない一地域です。けれども集う人々は、語られる言葉を聞き届けて驚きます。「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろう」。この疑問は人々の大きな関心となって知らぬ者同士を結び、使徒たちには一斉に眼差しが向けられます。しかし。
 幼き日に聴いた言葉はまことにシンプルです。母が子にささやく言葉が難しいはずがありません。使徒は神の愛を語っています。日本語では神の愛は「ご大切」とも訳されました。実はこの場面、神の愛のネットワークが、あらゆる言語の違いや分断の壁を超えて届き、「聴き従う」という祈りがあれば、だれもが明るみにされた神の愛の交わりにつながると語りかけています。傲慢さが交わりを混乱させた分断をもたらし、意思疎通を不可能にした『創世記』のバベルの物語の逆転現象が起きているのです。感染リスク対策は怠ってはなりませんが、コロナ禍による分断の悲しみは、絶えず育まれ続ける、いのちにあふれたネットワークに打ち勝つことはありません。



 今年の聖霊降臨日の礼拝は中継礼拝やHP動画という仕方で献げられています。今のところはやむを得ない苦渋の決断です。わたしたちは神との関わりを日々の忙しさの中で見失ってしまうのではないかと不安に駆られますが、『イザヤ書』42章2節から3節には次のようにあります。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく暗くなっていく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」。くすぶる灯心を消さない神の愛。神さまは時にふさわしい仕方でわたしたちに礼拝の豊かさをお示しになります。多様なわたしたちの一致は、イエスは主であるという呻き。その呻きから潤いに満ちた讃美と祈りが生まれます。