2021年4月29日木曜日

2021年5月2日(日) 説教(在宅礼拝用動画・要旨です。当日、礼拝堂での対面式礼拝はありません。)

「約束の実現に先んじる希望」 
説教:稲山聖修牧師
聖書:『ヨハネによる福音書』14章1~11節 
讃美歌:187, 280(1,2) , 544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。
ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

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【説教要旨】
「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへと移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛しぬかれた」との序に続く弟子とのやりとりの中に、本日の箇所は記されています。人の子イエスは弟子の足を洗い、そして最後の晩餐の席でイスカリオテのユダによる引き渡しを告げ、ユダがその席から去った後にはペトロの離反を予告します。『新共同訳聖書』ではイスカリオテのユダの場合は「裏切り」、ペトロの場合には「離反」と言葉を換えております。これは新共同訳のテキストに付加された見出しであって、ギリシア語の原文には出てまいりません。弟子たちの群れには、この相次ぐ仲間の離反の予告は想像を絶する恐怖と不安をもたらしたことでしょう。イエスが十字架への道をいよいよ具体化するに連れて、一人、またひとりと去っていく者がいる。これまでイエスとともに歩んだ時には何であったのかという腰の抜けるような脱力感と、これからわたしたちはどうなるのかという深い闇に、残された者は覆われてまいります。わたしたちの中から主イエスがいなくなる。それだけではなく主イエスが殺害されていく。すべてを捨てて従ってきたのに、もはや先は見通せず足もすくむといったところに弟子たちはいました。イエス・キリストは十字架での殺害という道を通り父なる神のみもとへと召されていきます。復活の出来事はまだ弟子たちには分からないままです。この箇所で迎える弟子たちの危機とは、交わりが解体され、バラバラにされていくというだけでなく、これまで喜びに満ちていたはずのイエス・キリストとの出会いがすべて空虚な思いの中に捨て置かれる恐怖です。人の世にありましては、どれほど尊敬を集め、仰がれる人と出会ったとしても、やがて別れの後、その姿は懐かしさとともに曖昧模糊となっていきます。いや、まだ思い出せるのであればよいほうで、それすらも困難になってしまう場合もあります。

 しかしそのように狼狽える弟子の群れにイエス・キリストは語りかけます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのところへ迎える。こうして、わたしのいるところに、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」。世の中から締め出されると恐れる弟子たちにイエスが仰せになるには、わたしのいるところには居場所がある、と語っているのです。たとえ弟子たちにその居場所が見えず、分からなかったとしても、イエス様は居場所を用意してくださっている、というのです。これは戸惑いを和らげはしなかったとしても、弟子たちのうろたえや危機感に、光をもたらしたのではないでしょうか。確かにこれからわたしたちには想像もつかない大事が降りかかるだろう。けれどもそのような大事であったとしても、何一つ神の御旨からは外れてはいないというメッセージです。「わたしがあなたがたに言う言葉は、自分が話しているのではない。わたしの内におられる父が、そのわざを行なっておられるのである」。だから心配するな、だから祈りつつ現実に働きかける神の声に耳を傾けなさい、というのです。

 おそらくはわたしたちが知る以上に、わたしたちが見聞きする以上に、イエス・キリストのわざは今、希望とともにわたしたちをつつみ、支えてくださっているとわたしは思いつつあります。泉北ニュータウン教会が創立されて50年を迎え、緊急事態宣言が発令される少し前の、実に不思議な体験です。それは泉北高速鉄道泉ヶ丘駅の駅前で、赤いのぼり旗を立ててアピール中の市議会議員のそばで署名活動をされる運動員から声をかけられたときです。全く知らない人です。職業を尋ねられたので「牧師です」と答えました。勤め先を尋ねられましたので「泉北ニュータウン教会・こひつじ保育園です」と答えました。保育園がこども園として名称を変更する前です。すると「牧羔先生のところですか」と運動員の方の堅い表情が和らぐのを確かに見ました。わたしはその方が熱心に活動されているのは存じていましたが、どこの誰かは存じません。そのような方から「牧羔先生は、いろいろなお話をされにきたことがあるんですよ、今は母親になった娘も、こひつじでお世話になりました」とまで仰せになっていました。思わず胸が熱くなりました。わたしたちは教会の中で、深い信頼関係のもと、教会員それぞれの想いを分かち合ったりぶつけ合ったりしながら交わりを深めておりますが、実はこの50年間、神様はイエス・キリストを通し、みなさんをお用いになって、時にはわれ知らないところで福音を広め、教会を人の所有物には決してさせない喜びを感じました。だからこそわたしたちは、このコロナ禍の後を、コロナ禍の最中にあっての祈りに加えたいと願います。やがて感染症の恐怖からも解放されます。そのときにキリストの香りを湛えるために、今まさに神の希望をともにしましょう。