2021年3月25日木曜日

2021年3月28日(日) 説教 (在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝もございます。)

「神に見捨てられたキリスト」 
 
説教:稲山聖修牧師
聖書:『マタイによる福音書』27章45~56節 
讃美:136(1,2), 136(3,4), 539.

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 未曾有の悲しみや困難に襲われたとき、わたしたちはその原因となっている出来事に意味や由来を求めて納得し、説明しようと試みます。因果応報という考えがそれで、聖書の舞台となる世界でもしばしば見られるところです。「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか、それとも、両親ですか」という『ヨハネによる福音書』9章の物語はよく知られています。また災害や社会で生じている混乱について外国だけでなく異なる考えをもつ人々に責任を転嫁する陰謀論というものもあります。確たる裏づけはなく思い込みで流されるデマは必ず社会の弱者のいのちを弄びながらも、デマを流した当人は全く責任をとらないところへと拡大してまいります。

 けれどもまことに不条理極まりない困難に遭って打ち砕かれた人は、その原因を探ろうともせず、また誰かのせいにもしようとはいたしません。実情が明らかになれば話は別ですが、心の底から打ち砕かれた人と申しますと、ただ嘆くしかなく、またただ閉じこもるほかなくなります。心も病みます。引きこもります。貧困はアフリカや南米にもありますが、わたしたちの街にある団地にさえ、戸建てにさえあります。誰も好き好んでそのような状況に陥る人はおりません。何が分かるのかという憤りさえ持てなくなるという困窮を、果たしてわたしたちは知っているでしょうか。必ずしも金銭だけでは計り知れない苦しみもあります。自己責任という言葉で切り捨てるにはあまりにも酷です。
 本日の聖書の箇所では反感を抱く祭司長や律法学者といった権力者からイエス・キリストが危険視され、その果てに濡れ衣を着せられ、不当に逮捕され、公正な裁判さえ受けられず、ただただ坂道を転がされていくように誰もその責任を問われない仕方で十字架につけられ、その内実は殺害されていくという姿がなまなましく描かれています。この時代の処刑と申しますのは民衆の鬱憤晴らしという意味での見世物という性格も帯びていましたから、多くの人々の好奇の目に晒され、その時代の法的手続きに準じて処刑される死刑囚からも罵声を浴びせられるという始末です。本来ならばこのようなお話自体表沙汰にされず、闇に葬られるはずですが、福音書の書き手はこの十字架での出来事に救い主のあゆみの中で示された人の世の本質を曝こうといたします。それは何も悪いことをしていないどころか、貧困や孤独の中にいた多くの人々を導き癒したのにも拘わらず、十字架での殺害を通じて、わたしたちの暮らす世が、いかに神が創造されたいのちのあり方からかけ離れ、そして救い主自らの苦しみと絶望の叫びが、本来なら一瞥もされないところにある苦しむ人々の姿を映し出し、世の中心に置いているところに明らかです。わたしたちは「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)と叫んだことがあるでしょうか。これはただの苦しみの叫びではなくて、打ち捨てられていく人の絶望の叫びです。これは10年前の被災地で響いた声であり、あるいは新型感染症の中で万策尽きて斃れていく人々の声でもあり、困窮の中で声すらもあげられない人々の声なき呻きでもあります。わたしたちが仮に耳を塞いだとしても、イエス・キリスト自ら十字架の上でこの声を発している以上は、その痛みを聞き届けずにはおれません。

 さらにわたしたちは次の事柄に注目したいのです。それは『マタイによる福音書』ではキリストのこの叫びが、死者の復活、そして本来ならばガリラヤを始めエルサレムにも暮らすユダヤの民を虐げる役目の最前線にいたはずの、また実質的にはキリストの殺害の責任者でもあったローマ帝国の軍人や下役に「本当にこの人は神の子だった」との呻きとも告白ともわからぬ言葉をもたらしているところです。なぜでしょうか。

 いろいろな解き明かしが可能であるとは思いますが、やはりこの箇所からはイエス・キリストが、神に見捨てられた人、すなわち「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのか」と叫ばずにはおれない人々と一緒にいるという「神ともにいます」というあり方を究極にまで貫かれた姿がわたしたちに問われているのではないでしょうか。もし救い主にとって、死という出来事が乗り越えられない絶対的な壁であるならば、このような叫び声をあげることはあり得ません。むしろ沈黙してその死を従容として受け入れる、死を美化する姿を選ぶことでありましょう。しかしキリストはそうはされませんでした。復活という、言葉としては知ってはいるけれども荒唐無稽だとして笑われ、または人々から遠ざけられた救い主としてのあり方を実現されただけではなくて、死に対するいのちの勝利が全ての人々に及ぶのだと明らかにしてゆかれたのです。今、献げる礼拝もまたキリストを通して同じところに立っています。祝祷の際に牧師は天に召された兄弟姉妹を会衆に想い出していただきます。そしてこの場に集められたお一人おひとりに神の愛の祝福を祈っております。いつどこにあっても、神はわたしたちとともにいてくださるからです。