2020年12月3日木曜日

2020年12月6日(日) 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝も行われます。)

「キリストに出会う勇気」   
『マタイによる福音書』13章53~58節 
説教:稲山聖修牧師
聖書 マタイによる福音書13章53~58節
(新約聖書27ページ)
讃美 96(1,3節), 二編41(1,3節), 542.

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 「イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることはなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らを癒さない。』しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聴いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたがったが、聞けなかったのである」。本日の福音書の13章14~17節に記されている、譬えを用いて神の国の秘密を語る問いに向けたイエスの答え。この言葉は福音書に記される物語であるとともに、イエス・キリストの言葉と働きへの向き合い方をわたしたちに問いかけてきた教えでもあります。思うに、イエス・キリストが故郷にお帰りになって語っていたその教えもまた、福音書にちりばめられた種々の譬え話と何ら遜色はなかったことでありましょう。

 そのような場面も編み込まれた本日の箇所はクリスマス物語の後日談にもなっています。物語の舞台はナザレ。クリスマス物語でヨセフとマリアが、ヘロデ王の息子を警戒して訪れて住いを構えた集落でした。その集落に暮らす人々が人の子イエス、そしてその家族と関わった場でもあります。人々の挙動に目を注ぎますと、わたしたちはいろいろと気づかされます。それは家業が大工であると指摘しながら「母親はマリア」、「ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ」と多くの弟の名を語り、さらには妹たちにも囲まれていたという生育環境を語っているのです。人の子イエスは、実に多くの家族に囲まれて育ったと記されます。しかし、なぜか人々はヨセフの名を語りません。世帯主として第一に名を挙げられるのが父ヨセフではなく母マリアですから、イエス・キリストは今日での母子家庭の中で育ったようでもあります。ただそのような家族事情そのものよりも深刻な現実があります。それは人々が人の子イエスの家族事情の詮索に興じてばかりで、イエスが「会堂」、すなわち当時のユダヤ教のシナゴーグで語る教えにはほとんど関心を払ってはいないその態度にあります。福音書の書き手はイエスを救い主として受け入れた人々やイエスに従う群ればかりではなく、またイエス・キリストの存在を危険視し、抹殺を企てるという仕方で強烈な関心を抱く勢力を描くばかりでもなく、イエスが救い主であると気づかなかったという「熱くもなく・冷たくもない」人の姿をも視野に入れています。そこで描かれる人々はせっかくイエスの人の子としての生涯と同時代に生まれただけでなく「姉妹たちは皆、われわれと一緒に住んで」いるほどの近さにいたとしても、誰がキリストなのか無関心、他人事なのです。

 旧約聖書・新約聖書全巻を見渡して気づかされるのは、イエス・キリストとの出会いへと導かれる「神の愛」につつまれたその多くが、人生の「底を打った人々」であり「痛みを痛みとして」「悲しみを悲しみとして」「うろたえをうろたえとして」「どうすればよいのか他に道がなかった」という事情を背負っているところにあります。「求めなさい、そうすれば、与えられる。探しなさい、そうすれば、見つかる。門をたたけ、そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」とありますが、求めずにはおれない、探さずにはおれない、門をたたかずにはおれないという限界状況の中にこそ、キリストとの出会いが隠されています。わたしたちはそのようなキリストとの出会いを、そのような狼狽えや試行錯誤、多くの戸惑いの中で授かります。これは実に不思議な話ですが、神から授かる勇気なしに、わたしたちはそのような狼狽えや戸惑いの中に立ち涙を流す、鳥肌の立つような思いを抱くことはありません。むしろ人としては巧みにそのような狼狽や戸惑いを避けようとします。しかしそれでは「神の子イエス・キリストの誕生」という出来事の当事者となるのは困難ではないでしょうか。

 もちろんわたしたちは誰しも人生の底を打つ体験から決して自由ではありません。その場に居合わせたとき、心身ともに身動きがとれなくなってしまったとき、「恐れてはならない」という声が胸に響くのです。イエス・キリストの誕生の当事者として、飼い葉桶の傍らに立つ人々の列へと加えられている事態に気づかされるのです。ある者は日々の暮しに苦しむ羊飼いであり、ある者ははるか遠いところから、道行く人々に半ば好奇の目にも晒されながら歩んできた三人の博士であり、やがて救い主に癒されるであろう、様々な歪みを抱えたところのわたしたちでもあります。「恐れるな」との声は、今日の箇所では姿を描かれないヨセフにも、またキリストを身籠ったマリアにも響きました。イエス・キリストの出来事の当事者となる門はわたしたちにも開かれています。キリストに出会う勇気、そしてその出会いを待ち望む勇気。その勇気を主なる神から注がれながら、待降節の第二週を過ごしましょう。