2020年3月15日日曜日

2020年3月15日(日) 説教


「あなたがたも離れていきたいか」
『ヨハネによる福音書』6章66~71節
説教:稲山聖修牧師


「礼拝には這ってでもいくべし」。ある世代の牧師や教会員には信仰生活の規範として響いたこの言葉も、コロナウイルス感染症流行の前には無力なように思える。今朝の箇所では「あなたがたも離れていきたいか」とイエス・キリストは弟子達に語りかける。イエスが単なる精神論を振りかざした結果招いた事態だとは考えづらい。

 思えばイエス・キリストが、ある少年の五つのパンと二匹の魚を分けて、五千人の飢えを満たす出来事に物語の源がある。物語ではその後、湖の対岸にイエス・キリストとその弟子が舟で渡り、群衆も小舟で追ってくる。到着した後にイエスは群衆に語りかける。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためにではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命にいたる食べ物のために働きなさい」。対して「神のわざを行うためには、何をしたらよいでしょうか」と問えば「神がお遣わしになった者を信じること、それが神のわざである」とキリストはさらに応じる。このやりとりの中でイエスは「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに食べさせたのではなく、わたしの父が天からまことのパンをお与えになる」と解き明かす。この中で「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」との声があり、そこでイエス・キリストは「わたしがいのちのパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことはない」との言葉が刻まれる。これが律法学者の物議を醸すのだ。「わたしはいのちのパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降ってきたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉の事である」。このメッセージの中では「あなたがたの先祖は荒れ野でマナを食べたが死んでしまった」と『出エジプト記』の凝り固まった解釈が批判され、救い主のわざは「復活」という死に勝利する「いのちの出来事」と不可分だとイエス・キリストは語る。

しかしながら、この言葉に応じた弟子は数としては多くはなかった。むしろ「実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いておられようか」と吐き捨てるように呟いては去っていった。おそらくその理由は救い主の訪れと旧約聖書、とりわけ『律法(トーラー)』にあるモーセの物語とが対比されたところに批判が及んだのではないか。去っていった弟子も癒しの奇跡を目の当たりにはしただろう。しかしイエス・キリスト自らが救い主であり、旧約聖書に記された神の約束の完成者であることには背を向けた。イエス・キリストの『出エジプト記』解釈は彼らには冒涜なのだ。では「あなたがたも離れていきたいか」と問われた12人の弟子の態度はいかがであったか。
 12弟子の実質上の指導的な立場にあるシモン・ペトロ、そしてペトロとは対極にあるかのように描かれるイスカリオテのユダが描かれる。『ヨハネによる福音書』では悪魔呼ばわりされているユダではあるが、あらためて思い起こすのはペトロとユダの違いがどこにあったのだろうかという問いだ。ペトロはイエスが身柄を不当に拘束される中、大祭司の屋敷の中庭で鶏が三度鳴く前にキリストとの出会いを否定する。「三度わたしを知らないと言うだろう」というイエス・キリストの言葉を身を震わせて受けとめるのはイエス・キリストから離反してからであった。また、悪魔呼ばわりされるイスカリオテのユダは『マタイによる福音書』27章4節では弟子の中で真っ先にイエス・キリストの無罪を公けにする。そして二人ともキリストを軸にした聖晩餐をともに囲んでいる。
イエス・キリストの福音を宣べ伝え、主を讃えるために礼拝に集う。それは精神主義的な頑張りの彼岸にある。弟子たちによる承認願望に満ちた頑張りの一切が裏目に出たところにキリストの苦難と十字架への道が浮かびあがる。ペトロもユダも罪人として同じ地平に立つ。それは日々の暮らしに必ず犠牲が伴っていることを忘れがちなわたしたちにも言える。「あなたがたも離れていきたいか」とキリストはわたしたちに日々問いかける。これは「わたしに従いなさい」という呼びかけの裏返しでもある。主に従おうとする者であれば誰もが、キリストの十字架への道から目を背けるわけにはいかない。不穏なうわさに惑わされず、主に招かれている厳粛さを味わおう。