2019年11月10日日曜日

2019年11月10日(日) 説教

「おさなごに証しする神の愛」
『ヨハネによる福音書』8章55~59節
説教:稲山聖修牧師


石川県の犀川沿いには口伝承の物語として次のような話があるという。暴れ川として知られるこの川にほど近い村に弥平という父親と、お千代という娘が暮らしていた。お千代は手まり遊びが大好きな娘だった。
お千代が熱を出してしまい生死の境を彷徨う。思い詰めた弥平はお千代がうなされながら呟く「小豆まんま食べたい」という願いを叶えるために一度だけ盗みを働く。庄屋の家に入り一握の米と小豆をぼろ布袋に入れて、お千代にその粥を食べさせた。そのお陰かお千代はみるみる健やかになって「小豆まんま食べた、うんめいまんま食べた」と歌いながら手まり遊びをした。
長雨が続く。川が溢れんばかりの勢いで流れていく。氾濫が迫るとき村では人柱を立てる倣いがあった。川の主(ぬし)によからぬことをしたとの疑いをもたれた者が人柱となる。お千代の手まり唄を聞いたという者が現れ、その年の人柱は弥平となった。お千代はそのわけを後日村人から聞き、幾日も泣き続けた後、言葉を失い、とうとう村から姿を消した。さて何年も経った後、村はずれに住う猟師が、久しぶりに獲物に恵まれたと喜んでいたとき、見覚えのある面影の娘が木陰に立っていた。ぽつりと言うには「雉も鳴かずば撃たれまい」。
この伝承の背後には、人柱という慣わしへのやり場のない憤りと悲しみがある。最も悲劇的なのは、お千代の手まり唄が川の氾濫に劣らない悲しみをもたらすところだ。おさなごの天真爛漫さが父の死の呼び水となってしまう。義憤と悲しみがなければ物語は決して語り伝えられなかったはずだ。
ところでこの伝承とは対照的に、おさなごの天真爛漫さが世の権力に打ち勝つ物語をわたしたちは知っている。「自分の地位にふさわしくない者には見えない布地」で作られた衣装でお披露目のパレードをして、大人たちがおべんちゃらの拍手をする中、あるこどもが「なんにも着てないよ!」と叫び、続いて群衆の中に「なんにも着ていらっしゃらないのか?」とざわめきが広がり、遂には「何も着ておられない!」という騒ぎの中、パレードは続くという社会風刺の物語。アンデルセンの童話「裸の王様」だ。おさなごの天真爛漫さという宝がどのような彩を放つのか。これがこどもたちの置かれた社会を映す鏡として、物語の書き手や言い伝えの担い手すら気づかないないままに描かれているようでもある。

イエス・キリストもある種の天真爛漫さを湛え、無邪気さに溢れているように思える。その天真爛漫さや無邪気さは、わたしたちのそれと深く共鳴するところだ。イエス・キリストは決して悟りを開いた人物ではなかった。エルサレムの都を眺めてそのさまを嘆いては涙し、徴税人と食卓を囲んでは笑顔とともに語らい、エルサレムの神殿の境内で両替商の机をひっくり返す気性の激しさももつ。その振る舞いの源は、父なる神と直接結びついたところの天真爛漫さだ。だからこそイエス・キリストは絶えず真理を示し、恐れ知らずである。
「いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか」と迫る反対者を恐れずにイエス・キリストは語る。「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そしてそれを見て、喜んだのである」。反対者たちが「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエス・キリストは答える。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる以前から、『わたしはある』」。「わたしはある」とは、『出エジプト記』でモーセがホレブ山に登った時に示されたアブラハムの神の名前。イエス・キリストはこの言葉を語ることによって、自らが神から遣わされた救い主であることを示す。究極の天真爛漫さとしての姿をも併せもつ、神の言葉という真理がそこにある。
今わたしたちがこどもたちに証しできるのは何か。手がかりはお千代のために泥を被りながら遂には生き埋めにされていった弥平の姿だ。しかしわたしたちが受けとめる弥平の姿は、口伝承の弥平とはその姿を変えている。「雉も鳴かずば撃たれまい」から「屋根の上で時の訪れを告げ知らせる雉の声」となっている。その声は村中に響き渡り、おさなごに「もう泣くことはない」「どんどんてまり遊びをしなさい」「安心してご飯を食べなさい」「喜びの歌を歌いなさい」と語りかけ、大空を駆けていく御使いとなった弥平の姿がある。人柱としていのちを奪われても、神の愛が世におよび完成するとき、キリストにあって復活する弥平の姿だ。「わたしはある」という名のアブラハムの神は語る。「大丈夫だ。わたしはいつもあなたとともにいる」。イエス・キリスト自らが、主の祈りの中で「父よ」と呼ばわったように、わたしたちも「天にましますわれらの父よ」と始まる「主の祈り」を献げることを赦されている。イエス・キリストに根を降ろす中で、齢を重ねながら、わたしたちもまた神の子の一人としての祝福に授かる。「大丈夫だ。わたしはいつもあなたとともにいる」。インマヌエルの神・イエス・キリストがおさなごたちを自らの愛でつつんで導き、おとなを正気に立ち返らせてくださるのだ。